レノン=マッカートニー

 ・ビートルズメンバーの共作関係


ビートルズのオリジナル曲は全てメンバーが作詞・作曲を行っていますが、ジョン・レノンとポール・マッカートニーの共作名義であるレノン=マッカートニーが最も多く見られます。

オリジナルのビートルズナンバーは全部で213曲あり、半数以上の144曲がレノン=マッカートニー名義です。

その他の公式発表曲には名前の並び順が逆になっているマッカートニー=レノン名義の作品が8曲と、ジョン・レノン・アンド・ポール・マッカートニー名義の曲が13曲あります。

またレノン=マッカートニーとリンゴ・スターの共作が曲の他に、全員で共作した2曲が存在します。

ジョージ・ハリスンの作品は22曲、リンゴの作品は2曲あります。

未発表曲集の「ザ・ビートルズ・アンソロジー」にはジョージが、ジョン、ポールとそれぞれ共作した作品が収録されています。

「ザ・ビートルズ・アンソロジー」はビートルズの解散後に制作されたアルバムとドキュメンタリービデオ、ドキュメンタリーブックの3部構成の総称です。

これらの制作プロジェクトは総括してアンソロジー・プロジェクトと呼ばれており、作品はアンソロジー3部作と呼ばれます。

・レノン=マッカートニー

レノン=マッカートニー名義の作品には、アメリカのビルボードとイギリスのミュージック・ウィークの双方で1位を記録したものが多く見られます。

ギネス・ワールド・レコーズでは最も成功したシンガー・ソングライターとして記載されています。

ジョンとポールの担当割合に関する公式な記録はありません。

書籍「ザ・ビートルズ・アンソロジー」は2000年10月5日に13カ国版が世界同時発売された、アンソロジー・プロジェクトの書籍版です。

日本語版の監修・翻訳はザ・ビートルズ・クラブ(BCC)が担当しました。

唯一の公式自伝と呼べる作品となっており、各年代のメンバーの発言を中心として未発表写真などを加えた編集が行われています。

ビートルズが無名だった時代から絶頂期を経て解散に至るまでの経緯がメンバーの言葉で語られているのが特徴です。

書籍版の「ザ・ビートルズ・アンソロジー」のおけるポールのコメントによると、「プリーズ・プリーズ・ミー」はジョン、「P.S.アイ・ラヴ・ユー」はポールがメインで、「フロム・ミー・トゥ・ユー」は半々の担当割合でした。

様々なパターンが存在しますが、基本的にその曲をメインで作った方がリード・ボーカルを取っているケースが多いそうです。

また共同クレジットで発表することは早い段階で決まっていました。

レノン=マッカートニーという序列は話し合いで決定されたものです。

「ザ・ビートルズ・アンソロジー」の第1アルバムではプリーズ・プリーズ・ミーでのみマッカートニー=レノンという表記になっています。

イエスタデイのようにポールが主に作詞・作曲を担当した曲はマッカートニー=レノン名義にすることが検討されましたが、実行されてはいません。

デビューシングルの「ラヴ・ミー・ドゥ / P.S.アイ・ラヴ・ユー」はレノン=マットカートニー名義でしたが、2枚目の「プリーズ・プリーズ・ミー / アスク・ミー・ホワイ」と3枚目のシングル「フロム・ミー・トゥ・ユー / サンキュー・ガール」、アルバム「プリーズ・プリーズ・ミー」はマッカートニー=レノン名義です。

アルバム「ハード・デイズ・ナイト」は「JOHN LENNON AND PAUL McCARTNEY」という表記になっています。

他にも「Lennon, McCartney」や「John Lennon - Paul McCartney」、「John Lennon & Paul McCartney」、「J. Lennon - P. McCartney」などの表記が存在します。

ビートルズを結成した当初からジョンとポールのいずれかが単独で作った曲もレノン=マッカートニーかマッカートニー=レノンの名義にするという約束が存在します。

1980年の「ジョン・レノンPlayboyインタビュー」によるとジョンとポールは15才の頃に協力して曲を書こうと決めたときに、どのようなものでも2人の名義で出そうと取り決めをしました。

デビュー前にジョンとポールが作曲した作品には「One After 909」や「I'll be on my way」などがあります。

この約束は法的なものではなく後のトラブルの原因となっています。

1969年にジョンがプラスティック・オノ・バンド名義で発表した「Give Peace a Chance(邦題は「平和を我等に」)」も、かつてはレノン=マッカートニー名義でした。

「Give Peace a Chance(邦題は「平和を我等に」)」はジョンとヨーコの共作で、ビートルズ関連の作品でレノン=マッカートニー名義になっていた唯一の例外です。

生前のジョンにはビートルズを離れることに後ろめたさのようなものがあり、この曲をレノン=マッカートニー名義にしたと「ジョン・レノンPlayboyインタビュー」で述べています。

「Give Peace a Chance(邦題は「平和を我等に」)」は1997年以降ジョン・レノンの単独表記に変更されました。

当初は作詞・作曲を担当した割合が多い方の名前が先になるようにしていましたが、徹底されてはおらず、1963年にはアルファベットでLがMの前に来ることや口に出したときの語感のよさ、年齢などの理由でジョンの名前が先に入るようになります。

リード・ボーカルか主旋律を歌っている方が主に作詞・作曲を行っているケースが多く見られます。

ジョージ・ハリスンがリード・ボーカルの場合(2曲)とリンゴ・スターがリード・ボーカルの場合(4曲)では、曲によっていずれが主に作曲したかは異なります。

リンゴ・スターがリード・ボーカルを務めた「What Goes On」はLennon-McCartney-Starkey名義で発表されました。

実際に2人で共作した作品は20数曲程度という説もありましたが、ジョンはインタビューで否定しています。

ポールも自伝の「MANY YEARS FROM NOW」で多くが共作であると述べているものの、実際の担当割合は曲によって異なります。

ほぼ半分ずつ担当した曲もあれば片方がメインで作詞・作曲を行い、もう片方が手伝った程度のものも存在します。

1963年に発売された4枚のシングルの中では「プリーズ・プリーズ・ミー」をジョンが作曲しましたが、「フロム・ミー・トゥ・ユー」と「シー・ラヴズ・ユー」、「抱きしめたい」は完全な共作です。

「ミッシェル」はポールが作曲し、ジョンからサビ部分をコーラスにしたらどうかという助言を得て完成しました。

2002年に発売されたポールのライブアルバム「バック・イン・ザ・U.S. -ライブ2002」のライナー・ノーツで、収録されているレノン=マッカートニー名義の作品を「Paul McCartney and John Lennon」名義にしたところ、オノ・ヨーコが訴訟を検討中と報道されています。

ただしポールがソロで歌合う場合には、ジョンが作詞・作曲に全く関与していない「イエスタデイ」などの曲で名義を逆にしてもよいという合意があったそうです。

・他のアーティストの提供されたレノン=マッカートニー名義の楽曲について

マネージャーのブライアン・エプスタインはザ・フォーモスト、アップルジャックスなど他のグループもプロデュースしていました。

これらのグループやブライアンの死後にアップル・コアからデビューしたアップル・コアからデビューしたピーター&ゴードン、メリー・ホプキンなどにジョンとポールが曲を提供した場合にも、レノン=マッカートニー名義になっています。

他のアーティストに提供された楽曲は1979年にEMIから発売されたコンピレーション・アルバムの「The Songs Lennon and McCartney Gave Away」に収録されました。

このアルバムの一部の曲はビートルズとしても演奏・録音が行われており、「ザ・ビートルズ・ライヴ!! アット・ザ・BBC」や「ザ・ビートルズ・アンソロジー」に収録されています。

デビュー前にデッカ社のオーディションでは「ハロー・リトル・ガール」と「夢のように("Like Dreamers Do")」、「ラヴ・オブ・ザラヴド」の3曲が録音されました。

後に「ハロー・リトル・ガール」はザ・フォーモストに、「夢のように("Like Dreamers Do")」はジ・アップルジャックスに、「ラヴ・オブ・ザラヴド」はシラ・ブラックにそれぞれ提供されています。

ローリング・ストーンズにはミック・ジャガーとキース・リチャーズが作詞・作曲を共同で行った曲がジャガー/リチャーズ名義とされていますが、きっかけはローリング・ストーンズがレノン=マッカートニー作の「アイ・ウォナ・ビー・ユア・マン」の提供を受けたことにあります。

ジャガー/リチャーズの場合はミックが作詞、キースが作曲を担当しているケースが多いのが特徴です。

ビートルズのメンバーについて

 ・主要なメンバー

ビートルズの主要なメンバーはジョン・レノン(John Lennon)とポール・マッカートニー(Paul McCartney)、ジョージ・ハリスン(George Harrison)とリンゴ・スター(Ringo Starr)の4人です。

主要メンバーはいずれもイングランドのマージサイド州リヴァプールの出身ですが年齢は異なっています。

年齢が最も高いのがリンゴ・スターで、ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスンという順になります。

在籍期間はジョン・レノンが1960年から1969年まで、リンゴ・スターが1962年から1970年までで、ポール・マッカートニーとジョージ・ハリスン1960年から1970年までです。

ジョン・レノン(1940年10月9日~1980年12月8日)は1960年から1969年まで在籍していました。

担当はボーカルの他にリズムギターとリードギター、キーボード、ハーモニカ、ベースです。

ポール・マッカートニー(1942年6月18日~)の担当はボーカル、ベース、リズムギター、リードギター、キーボード、ドラムスでした。

ジョージ・ハリスン(1943年2月25日~2001年11月29日)の担当はリードギター、ボーカル、リズムギター、シタール、キーボード、ベースです。

リンゴ・スター(1940年7月7日~)の担当はドラムス、パーカッション、ボーカルです。

・初期のメンバー

初期のメンバーにはピート・ベスト(Pete Best)とスチュアート・サトクリフ(Stuart Sutcliffe)、チャス・ニュービー(Chas Newby)、ノーマン・チャップマン(Norman Chapman)、トミー・ムーア(Tommy Moore)がいます。

ピート・ベスト(1941年11月24日~):イギリス領インド帝国・マドラス管区マドラス出身、在籍期間は1960年~1962年で担当はドラムスとボーカル。

スチュアート・サトクリフ(1940年6月23日~1962年4月10日):スコットランド・エディンバラ出身、在籍期間は1960年~1961年で担当はベースとボーカル。

チャス・ニュービー(1941年6月18日): イングランド・ブラックプール出身、1960年に在籍し担当はベース。

ノーマン・チャップマン(1937年~1995年):出身地は不明、1960年に在籍しドラムスを担当。

トミー・ムーア(1931年9月12日~1981年9月29日): イングランド・マージーサイド州リヴァプール出身、1960年に在籍してドラムスを担当。

・ツアー時のメンバー

ツアー時のサポートメンバーとしてジミー・ニコル(Jimmie Nicol)が1964年に参加していました。

ジミー・ニコル(1939年8月3日):イングランド・ロンドン出身、担当はドラムス。

・ビートルズメンバーの変遷

1957年にジョン・レノンはスキッフル・バンドのクオリーメンを結成し、バンドはジョニー&ザ・ムーンドッグス、ロング・ジョン&シルヴァー・ビートルズ、シルヴァー・ビートルズと改名を繰り返します。

ビートルズが正式名称になるまで複数のメンバーが入れ替わっており、ビートルズとなってからのメンバーは全部で6人います。

「ラヴ・ミー・ドゥ」は1962年10月5日に発売されたビートルズのデビューシングルです。

6人のうちスチュアート・サトクリフとピート・ベストの2人はデビューシングルが発売される前に脱退しています。

スチュアート・サトクリフは1960年1月に加入してベースを担当し、1961年に行われた2度のハンブルク巡業後に脱退します。

ピート・ベストは1960年8月に行われた最初のハンブルク巡業の直前にドラムスとして加入しますが、1962年8月16日に解雇されています。

その2日後の8月18日にロリー・ストーム & ザ・ハリケーンズにいたリンゴ・スターがビートルズに加入しました。

「Beatles」というバンド名の由来について

英語の「beetle」はカブトムシやクワガタ、ホタルなどの甲虫を表す言葉です。

他にも様々な意味があります。

「beetle」の意味

名詞:甲虫(カブトムシ、クワガタ、カナブン、ホタルなど)、近眼の人、大槌、杵、すりこぎ
自動詞:かけずり回る、急ぐ、逃げ出す、覆いかぶさる
他動詞:槌で~を打つ
形容詞:突き出ている

「Beatles」というバンド名は綴りが甲虫の「beetle」とは異なります。

このバンド名はジョン・レノンと初期メンバーだったスチュアート・サトクリフが考えた造語です。

ジョンによるとこのバンド名は1960年4月に考案されました。

映画「乱暴者」からヒントを得て、バディ・ホリーのバンド名「バディ・ホリー&ザ・クリケッツ」のクリケッツ(コオロギ)のように2つの意味を含む言葉として「ビートルズ」というバンド名を思いついたそうです。

「cricket」の意味

名詞:コオロギ、(スポーツの)クリケット、スポーツマンシップ、フェアプレー、誰も何も言わない状態、完全な(気まずい)沈黙、シーンとしている(しまう)こと
自動詞:クリケットをする

「乱暴者(原題はThe Wild One)」は暴走族を題材として初めて扱ったアメリカ合衆国の映画で、1953年に公開されました。


バディ・ホリーの本名はチャールズ・ハーディン・ホリーで、1956年から1959年にかけてザ・クリケッツを率いて活動したアメリカのロック・ミュージシャンです。

「That'll Be The Day」「Peggy Sue」などの代表曲があります。




カブトムシの複数形はbeetlesですがBeatlesは3文字目がAになっています。

beetleにはカブトムシだけでなくコガネムシやカナブンなども含まれます。

日本で好かれているカブトムシとは異なり、イギリスやアメリカでは甲虫類は害虫として嫌われる存在です。

Beatlesというバンド名は甲虫だけでなく、beat musicも連想させるものです。

ビート・ミュージックはBritish beatやMerseybeatとも呼ばれます。

イングランド北西部を流れるマージー川の河口には、マージーサイド州のリヴァプールがあります。

The Merseybeatsはリヴァプールのマージー・ビート・シーンの中から1960年代初頭に登場したバンドです。

キャヴァーン・クラブではビートルズなどと共演していました。
 

マージー・ビートのバンドはマージー川沿いのリヴァプールや周辺地域から登場しました。

そのためビート・ミュージックはマージー・ビートとも呼ばれています。

ビート・ミュージックはポピュラー音楽のジャンルで、ロックンロールやスキッフル、伝統的な大衆音楽の影響を受けており、このジャンルは1960年代初頭のイギリスで発展しました。

バンド名をビートルズにした頃、クラブ出演を依頼してきたブライアン・キャスは難色を示し、出演の条件として「ロング・ジョン&ピーシズ・オブ・シルヴァー」というバンド名への改名を提示します。

バンド側は譲歩して「ロング・ジョン&シルヴァー・ビートルズ」という名称を受け入れますが、後にロング・ジョンを除いて「シルヴァー・ビートルズ」と名乗るようになります。

シルヴァー・ビートルズのつづりは途中まで「The Silver Beetles」となっていました。

1960年8月から行われた最初のドイツでのハンブルク巡業では、出演したクラブ「カイザー・ケラー」の広告に「The Beatles」と記載されています。

ビートルズ(The Beatles)とは

 ・最も成功したグループアーティストであるビートルズ(The Beatles) 

ビートルズは1960年代から1970年代にかけて活躍したイギリスのリヴァプール出身のロックバンドです。

主なメンバーはジョン・レノンやポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スターの4人ですが、その他にもピート・ベストやスチュアート・サトクリフなど初期メンバーや、ツアー時のサポートを行っていたジミー・ニコルなどがいました。

ビートルズは20世紀を代表する音楽グループであり音楽誌「ローリング・ストーン」による「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」で第1位になっています。

また経済紙のウォール・ストリート・ジャーナルの統計算出による「史上最も人気のある100のロックバンド」でも第1位となっている他に、グラミー賞を8回受賞して24回ノミネートされています。

ビートルズは主に1960年代に活動していたバンドでメンバーのジョン・レノンが1957年に結成したクオリーメンが前身です。

クオリーメンは1960年にビートルズと改名して1962年10月5日にレコードデビューし、1970年4月10日に事実上解散します。

母国のイギリスでは全部で12作のオリジナル・アルバムを発売し、11作は全英のアルバムチャートで週間第1位を獲得しています。

11作の週間第1位の合計獲得数は162週で、年間売上最高アルバム4作と第1作の「プリーズ・プリーズ・ミー」による連続30週第1位は1960年代における最高の成績です。

ビートルズはシングルを22作発売しており、17作は第1位を獲得しました。

アメリカなど世界各国でも優れた業績を残し、全世界におけるレコードやカセット、CD、ダウンロード、ストリーミングなどの売上総数は6億枚を超えています。

ギネス・ワールド・レコーズに最も成功したグループアーティストとして認定されました。

ビートルズは1965年10月26日にイギリスの女王エリザベス2世からMBE勲章を授与されています。

活動全期にはアイドル的な人気を誇りビートルズマニアと呼ばれる熱狂的なファンを多く獲得します。

後期になると「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」や「アビイ・ロード」など名盤と呼ばれる作品を発表して音楽的にも高く評価されるようになりました。

1988年にはロックの殿堂入りし、解散から数十年が経過した現在でも映画作品や記念盤が作られるなど世界中で高い人気を誇っています。

ウィリアム・ジョセフ・シーモアとアズサ・ストリート・リバイバルについて

ウィリアム・ジョセフ・シーモア
ウィリアム・ジョセフ・シーモア(1870年5月2日~1922年9月28日)はアメリカ合衆国における最初期のペンテコステ派指導者です。

ルイジアナ州で黒人奴隷の両親から生まれ正式な教育は受けませんでしたがメソジスト監督協会に通います。

メソジスト監督教会はアメリカの独立戦争時にメソジスト教徒がイングランド国教会との関係を絶たれたのでジョン・ウェスレーによって作られました。

ウィリアム・ジョセフ・シーモアはチャールズ・パーハムがテキサス州ヒューストンに開校した聖書学校への入学を希望します。

しかしアメリカ南部の法律で黒人が学校の中に入ることができなかったので窓の外で授業を聞きました。

パーハムはカンザス州のトピーカにある聖書学校で1900年末から新年にかけて祈祷会を行いました。

使徒時代のように祈るとパーハムや多くの生徒たちが異言を語り聖霊のバプテスマを経験したそうです。

1905年にパーハムは聖書学校をヒューストンに移します。

パーハムから訓練を受けたウィリアム・ジョセフ・シーモアは、1906年にロサンゼルスにあるホーリネス教会に牧師として赴任し異言を語らない者は聖霊のバプテスマを受けているとは言えないと主張します。

この主張は異言が聖霊による火のバプテスマであるというパーハムの考えを受け継いだものです。

シーモアが聖霊のバプテスマの体験を語ると教会での奉仕を拒否されますが、信徒宅で集会を行います。

集会において信徒が異言を語ったのでアズサ通りの使われていないメソジスト教会で3年間集会を続けます。

信徒が異言を語った事件はロサンゼルスの新聞に掲載されるとアメリカ中に広まり、ペンテコステ運動が始まりました。

この運動はアメリカだけでなくヨーロッパにも広がることになります。

プロテスタントの聖霊派とは

・聖霊派とは

キリスト教の世界は大きく西のカトリックやプロテスタントと東の正教会に分けることができます。

西方教会はかつてカトリックとプロテスタントで対立していましたが、現在はエキュメニカル派(リベラル派)と福音派(聖書信仰派)に分かれています。

大雑把な分類ではカトリックはエキュメニカル派で、プロテスタントにはそれぞれの教派にエキュメニカル派と福音派が存在します。

エキュメニカル派は聖書を字義通りに考えません。

一方で福音派は科学的にも歴史的にも文字通り正しいと考えています。

日本ではエキュメニカル派のカトリックとプロテスタントが協力して共同訳や新共同訳、聖書共同訳などの聖書が発行されました。

一方エキュメニカル派の聖書に反対する福音派は新改訳を発行しています。

プロテスタントの聖霊派は福音派の一種です。

福音派には聖書に記載された奇跡などが既に完了しておりもう起こらないと考える立場と現在でも起こりうると考える立場が存在します。

前者がアンチ・カリスマで後者がノン・カリスマです。

後者は奇跡などを信じていますが特に強調しません。

聖霊派は奇跡などの聖霊の働きや賜物を現代でも起きると信じており強調します。

賜物とは初代教会において生じた異言や預言、病のいやしや死人が生き返ること、悪霊追い出しなどです。

初代教会はキリスト昇天後の使徒たちが活動していた時代の教会を指します。

現代における聖霊派はペンテコステ派とカリスマ派に分類されます。

最初の発生したのはペンテコステ派です。

チャールズ・パーハム
1901年1月1日にホーリネス派の牧師であるチャールズ・パーハム(1873年~1929年)が女学生のアグネス・オズマンに按手をしたところ、その場にいた者たちが異言を語りだしたとされます。

パーハムは聖霊のバプテスマを受けることが大患難時代を逃れる唯一の方法であり、異言が聖霊のバプテスマを受けた唯一の証拠であるとしました。

大患難時代とは新約聖書のマタイ福音書24章21節で「大きな苦難が来る」と言われているもののことです。

キリスト教の終末論にはこの大患難が既に起こったとする説や現在も続いているとする説、未来に起きるという説などがあります。

そのときには、世界の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難が来るからである。(マタイ24:21)

聖霊のバプテスマは新約聖書でイエスが授けるとされた聖霊による洗礼のことです。

わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。(ルカ24:49)

ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。(使徒1:3)

あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。(使徒1:8)

・ホーリネス派とは

ジョン・ウェスレー
ジョン・ウェスレー(1703年6月28日~1791年3月2日)はイギリス国教会の司祭でメソジスト運動と呼ばれる信仰覚醒運動を指導しました。

メソジスト運動からメソジスト派というプロテスタント教会が生まれアメリカやヨーロッパ、アジアで大きな勢力を持つようになります。

メソジスト教会の内部から信仰復興のためのホーリネス運動が起こりました。

この運動の結果生まれた教団がホーリネス派です。

14世紀後半から現代までのフランシスコ会

・教会大分裂とフランシスコ会の腐敗

1378年から1417年までローマとアヴィニョンに教皇が擁立されカトリック教会が分裂した時代を「教会大分裂」と呼びます。

この時期にはフランシスコ会もローマ派とアヴィニョン派に分かれてそれぞれの教皇を支持しました。

1409年にピサで公会議派の教皇アレクサンデル5世が選出されると、ローマ派だった総長のアントニオ・ヴィニティがピサ派に同調します。

ローマでは別の総長が選出されたため、フランシスコ会は3つに分裂することになります。

分立した教皇たちはフランシスコ会を引き込むため様々な恩典を与えました。

これによりフランシスコ会が分裂しただけでなく腐敗が進みます。

1471年にシクストゥス4世がローマ教皇に就任しました。

シクストゥス4世はフランシスコ会の出身ですが、教皇に選出された理由は学識の高さと有力者への賄賂です。

教皇に就任した後も縁故主義により6人の甥を枢機卿に任命するなど親族登用を行ったり、親類縁者に金銭や役職を与えます。

・フランシスコ会の改革運動

14世紀後半から15世紀にかけてフランシスコ会では腐敗に対する批判を受けて改革運動が起こります。

改革は「会則の遵守(レグラーリス・オブセルヴァンティア)」を標語として掲げました。

そのため改革派や会則派、オブセルヴァンティス派などと呼ばれ、かつてのスピリトゥアル派的主張を吸収します。

改革派は後に主流派となり16世紀になるとイタリアのリフォルマーティ派やフランスのレコレ派、スペインのアルカンタラン派などの改革運動が起こりました。

フランシスコ会の保守派は修道会派やコンヴェントゥアル(コンベンツァル)派などと呼ばれます。

「Convent」は「共住」や「修道院」を意味しており、都会の修道院やそこに住む会員を指しました。

1517年には教皇レオ10世によって保守派と改革派が分割されます。

保守派が「コンベンツァル聖フランシスコ修道会」、改革派が「オブセルヴァンティス小さき兄弟会」となりました。改革派がフランシスコ会の主流を占めるようになります。

1525年にはイタリアのモンテファルコーネ修道院で、改革派のマテオ・ダ・バッシがカプチン小さき兄弟会を発足させます。

カプチン会は1528年にローマ教皇クレメンス7世から認可を受けました。

フランシスコ会には改革派とカプチン会、保守派の3つの分派が成立します。

1538年には南イタリアのナポリでクララ会から女子カプチン会が分派して創立されました。

カプチン会は当初コンベンツァル聖フランシスコ修道会の庇護下にありましたが、1619年に認可されて独立の修道会となっています。

・現在のフランシスコ会

フランシスコ会は大きく第一会から第三会で構成されています。

第一会は狭義のフランシスコ会で男子修道会です。1209年頃にイタリア中部のアッシジで成立しました。1210年に

教皇インノケンティウス3世によって第一会則の認可を受けて創設承認が口約されます。

1221年には聖フランチェスコにより第二会則が制定され、その修正を経て1223年に教皇ホノリウス3世によって正式に認可されました。

第一会はさらに小さき兄弟会とコンベンツァル聖フランシスコ修道会(コンベンツァル会)、カプチン・フランシスコ修道会(カプチン会)に分かれます。

最狭義のフランシスコ会は改革派の小さき兄弟会を指します。

第二会は観想的な女子修道会でクララ会(キアラ会)とも呼ばれます。

アッシジのキアラ
聖フランチェスコにとって最初の女性の弟子であるアッシジのキアラが中心となって結成されました。

修道女たちの活動の中心となったのはアッシジ郊外のサン・ダミアノ修道院です。

第二会は1253年に教皇イノケンティウス4世から許可を受けました。

第三会は在世フランシスコ会とも呼ばれます。

世俗にありながら托鉢修道士や修道女と同じ理念に従い同じ誓願を立てたいと望む信徒のため1221年頃に創設され、1447年に教皇ニコラウス5世の許可を受けました。

第三会は律修会と修道女会、在世会で構成されています。

フランスシスコ会主流派による教皇批判

・フランシスコ会による反抗

スピリトゥアル派は厳しい弾圧を受ける一方でフランシスコ会の主流派だけでなく教会に対して反抗し、教皇制度を批判しました。

教会による異端尋問が強化され監禁や火刑、修道院の破壊などが行なわれます。

ヨハネス22世は教勅を発布してフランシスコ会の特権を剥奪し、清貧の主張は異端であると主張します。

フランシスコ会の主流派も教皇を異端と非難するようになります。

さらに1328年には総長などが教皇と対立していた神聖ローマ皇帝のルートヴィヒ4世のもとに逃げ、ヨハネス22世の廃位を要求しました。

・教皇対立ニコラウス5世の擁立

フランシスコ会主流派だけでなくスピリトゥアル派も皇帝ルートヴィヒ4世と連携します。

さらにフランシスコ会員のピエトロ・ライナルドゥッキを対立教皇ニコラウス5世としてローマで擁立しました。

ルートヴィヒ4世はアナーニ事件の首謀者のひとりでコロンナ家のシアッラ・コロンナからローマ市民を代表して帝冠を受け、ヨハネス22世の廃位を宣言します。

・スピリトゥアル派の終焉

1330年に対立教皇ニコラウス5世はヨハネス22世に降伏しました。

ヨハネス22世に反対していたフランシスコ会の人々は南イタリアのナポリ王国やシチリア王国に逃れてスピリトゥアル派の残党であるフラティチェッリと合流します。

1354年頃にスピリトゥアル派の反抗は終焉を迎えることになります。

教皇ヨハネス22世によるスピリトゥアル派の弾圧

ヨハネス22世
1316年にヨハネス22世がアヴィニョン教皇庁の新教皇になると、翌年にはフランシスコ会の清貧論争に決着をつけます。

南フランスにあるオード県ナルボンヌとエロー県ベジエのスピリトゥアル派修道士に対して、清貧の象徴であった短い僧衣を捨ててフランシスコ会総長への服従を命じました。

ナルボンヌとベジエのスピリトゥアル派修道士61名を呼び出し、査問を拒否する場合は破門すると伝えます。

実際には査問は名ばかりで、スピリトゥアル派の修道士たちは連行され投獄されました。

投獄された修道士たちのうち多くは教皇とフランシスコ会総長に従いますが、20名が抵抗しました。

13名の神学者に諮問したところ、服従を拒む場合は異端として断罪されるべきとされます。

最終的に5名が不服従を貫いたため異端とされ1名が終身刑となり残りは世俗の裁判にかけられました。

教会の異端尋問では死刑を科すことができません。

死刑に処する場合は世俗の裁判にかける必要がありました。

不服従を貫いた4名は世俗の裁判の結果、1318年5月7日にマルセイユにおいて火刑となっています。

1328年までの10年間で、マルセイユやモンペリエ、トゥルーズなどのスピリトゥアル派の人々とペガンと呼ばれる在俗信徒が異端狩りの対象になります。

フランシスコ会は1322年にキリストと12使徒が私有財産を保有しなかったのは正当な神学的見解であることを公式に表明しました。

スピリトゥアル派に近い見解だったためヨハネス2世は異端と批難され、フランシスコ会は再び分裂することになります。

スピリトゥアル派への迫害

・スピリトゥアル派に対する迫害

スピリトゥアル派はフランシスコ会が教皇特権に依存し、聖フランチェスコの清貧の理想から離れることに反対します。

1280年代になるとコンヴェントゥアル派とスピリトゥアル派の対立が先鋭化しました。

コンヴェントゥアル派によるスピリトゥアル派への迫害とスピリトゥアル派の分派活動が強まります。

スピリトゥアル派が多く存在したのは北イタリアと南フランスですが、聖フランチェスコが活動したアッシジはイタリア中部です。

イタリアのスピリトゥアル派は早くから迫害を受けており、フランシスコ会から分離して流浪の存在となります。

最終的には彼らに共感するアラゴン王家のフェデリーコ2世が統治するシチリア王国へ逃走し、清貧論争の表舞台から姿を消しました。

シチリアへ逃走した一派はフラティチェッリと呼ばれます。

ペトルス・ヨハンニス・オリーヴィはスピリトゥアル派の理論家で厳格な清貧を訴えました。

彼はスピリトゥアル派の修道士だけでなく在俗の信徒からも広く支持されます。

そのため南フランスのランドックでは1280年代になると迷信的なセクトの頭目として批難され、著書は禁書となります。

さらにスピリトゥアル派の修道士たちも追放・監禁されるなどの迫害を受けました。

スピリトゥアル派の指導者の1人であるカザーレのウベルティーノによれば、14世紀初めの10年間で300名を越える会士が迫害を受けたとされます。

・クレメンス5世による保護

教皇ボニファティウス8世は教皇至上主義の考えを持っており、フランス国王フィリップ4世と対立します。

フィリップ4世はボニファティウス8世に異端と売官、奢侈的生活があり教皇の資格に欠けると批判し、教皇はフィリップ4世を破門しました。

フランスの宰相ギヨーム・ド・ノガレはローマ教皇庁から追放されたコロンナ家と共謀してイタリアに軍を派遣します。

1303年にボニファティウス8世は生まれ故郷の山間の小都市アナーニに逃げこみますが一時フランス軍に捕らえられます。

教皇はアナーニ住民の抵抗で救出されるものの怒りと失望で傷心し、3週間後に死亡しました。この一連の事件がアナーニ事件です。

フィリップ4世はテンプル騎士団の解散と財産没収、ユダヤ人の追放と財産没収、貨幣鋳造によって財政基盤を強化しローマ教会に圧力をかけます。

クレメンス5世をアヴィニョンに移住させ(アヴィニョン捕囚、教皇のバビロン捕囚)、教皇権に対する王権の優位を確立しました。

フィリップ4世により教皇権の衰退が明らかになる一方で、王権の伸張が近世絶対王制に繋がっていくことになります。

フランス出身の教皇クレメンス5世はラングドックのスピリトゥアル派に対して好意的でした。

1309年にはスピリトゥアル派支持者の要請で教皇庁内にフランシスコ会の問題を調査する委員会が設置され、コンヴェントゥアル派とスピリトゥアル派の代表がアヴィニョンに招かれます。

クレメンス5世が好意的だったため、スピリトゥアル派の修道士は他の会員たちとは異なった生活を続けることができました。

一方でコンヴェントゥアル派とスピリトゥアル派の対立は、教会法と聖フランチェスコのカリスマのいずれの権威が上かという論争をもたらします。

 キリスト教におけるカリスマとは神からの恩寵、賜物を意味します。

キリスト教におけるヨアキム主義とは

ヨアキム
ヨアキム主義は神秘思想家、キリスト教神学者だったフィオーレのヨアキム(1135年~1202年3月30日)が12世紀に主張した予言的・終末的な歴史思想です。

彼は三位一体的な構造を世界史に適用し、歴史は3つの時代で構成されると主張します。

第一の時代は「父の時代」で地上では祭司と預言者が活躍する旧約の時代にあたります。

第二の時代は「子の時代」でキリスト以後の教会が中心となる時代とされます。

第三の時代は「聖霊の時代」です。

教会の時代は過渡的なもので、聖霊の時代になって世界が完成するとします。

ヨアキムは第三の時代に地上では修道士が中心的な存在になると考えました。

教会や国家などの秩序が廃止され、修道士たちが兄弟的な連帯によって支配する時代になるとします。

この思想は教会から問題視されヨアキムは何度も警告を受けますが、撤回しなかったため異端宣言がされることになりました。

ヨアキムはイタリアのカラブリア州コゼンツァ県にあるチェーリコで富裕な公証人の家庭に生まれました。

県都に該当するコゼンツァの学校を卒業すると司法の仕事に就きますが、放縦生活の後で回心してエルサレムに巡礼しギリシャやビザンティウムを旅して帰国します。

その後南部イタリアのルッツィにあるサンブチーナ修道院で数年過ごし、レンデとコゼンツァで伝導を開始しました。

カンタザーロ近くのコルタレでシトー会に入会し修道士となります。

さらにコルタレの修道院長となりますが、1181年に教皇ルキウス3世に解職を願い出て許されます。

修道院長を辞めた後は放浪の旅に出かけ、ロンバルディアを通って1186年にヴェローナに至りウルバヌス3世に謁見します。

南イタリアに帰還すると弟子たちが集まるようになり、1195年頃にはコゼンツァの東にあるシラ山でフィオーレ修道院を建てます。

その後は死ぬまで修道院で瞑想と著述を行いました。

ヨアキムの著書「三位一体論」は終末論を含んでおり、彼の死後である1215年に異端判決を受けます。

ただし生前のヨアキムは複数の教皇から著述の権限が与えられており、著作も認可されていました。

1220年にはフィオーレ修道院がホノリウス3世によって正統信仰を守っていると保証されています。

当初ヨアキムはシラ山やサン・ジョヴァンニ・イン・フィオーレなど、ごく限られた地域で尊敬されていました。

しかし1240年以降になるとフランシスコ会の急進派がヨアキムの著作に影響を受けたため、彼の名前がイタリア全土に広まることになります。

生前のヨアキムが異端と宣告されたことはありません。

彼の著作は多くの異端史で扱われていますが、1688年にローマ教皇庁が公刊した「キリスト教の聖人に関する文書」に収録されています。

キリスト教の聖霊派について

・キリスト教におけるスピリチュアルとは

キリスト教には聖霊派と呼ばれるプロテスタントの教派が存在します。

聖霊派の他にも聖霊運動やカリスマ運動など似たような概念があります。

また聖霊派は一般的にプロテスタントの福音派の一種ですが、13世紀後半に北イタリアと南フランスで清貧の厳格な実践を唱えたカトリックのフランシスコ会に所属する少数派の人々もスピリトゥアル主義(心霊派、聖霊派、厳格派)と呼ばれます。

・フランシスコ会のスピリトゥアル派とは

聖フランチェスコ
カトリックのフランシスコ会はイエス・キリストのような清貧を理想とするアッシジの聖フランチェスコによって設立されました。

聖フランチェスコが理想とする清貧とは個人・共同体を問わずいかなる財産も所有せず、手工業生産と托鉢によってその日暮らしの巡礼者として生きることを指します。

しかしフランシスコ会は発展すると共に制度化され、修道院や教会など財産を所有することになります。

13世紀のフランシスコ会は教皇の個人的な恩顧により、秘跡の授与などの司牧活動で多大な収入を得るようになりました。

フランシスコ会に与えられた様々な特権は教会法でも認められるようになり次第に制度化されます。

聖フランチェスコの清貧の理想は現実から乖離したイデオロギーとなっていきました。

教皇グレゴリウス9世とイノケンティウス4世は教皇勅書を発して無所有の原則と物質的必要性の調和を図ろうとします。

それは財の使用と所有を区別して、所有は認められないが使用は認めるというものでした。

フランシスコ会が使用する財産は教皇座が所有していると解釈されるようになります。

あくまでフランシスコ会は無所有ですが、実際には修道会に寄贈された財産を自由に利用できるということになりました。

清貧の理想から乖離するフランシスコ会から、聖フランチェスコの生前の記憶を保持している人たちが次第に離れていきます。

13世紀後半には北イタリアとラングドックなどの南フランスで、ヨアキム主義の影響を受けたフランシスコ会の少数派が清貧の厳格な実践を提唱します。

この少数派はスピリトゥアル主義(心霊派、聖霊派、厳格派)と呼ばれています。

フランシスコ会は1280年頃までに主流派で緩和を推進する修道会指導部を中心としたコンヴェントゥアル派と、急進的なスピリトゥアル派に分裂しました。

コンヴェントゥアル派は清貧を法的観点から理解し、所有権の完全放棄のみで足りると考えます。そのため財の使用制限は義務ではなく努力目標であるとします。

一方スピリトゥアル派は会則の字義通りの実践を求めました。

聖フランチェスコが存命中に実践していた「裸のキリストには裸で従う」という本当の清貧を主張します。

そのため財の使用における貧しさがなければ清貧の名に値しないと考えます。

1280年以降、スピリトゥアル派はフランシスコ会内部で弾圧を受けますが後に教皇ケレスティヌス5世によって独立が認められます。

しかしケレスティヌス5世の退位後は再び弾圧を受けることになります。

スピリチュアルと類似概念の一般化

20世紀後半になるとニューエイジや精神世界と呼ばれる文化現象が見られるようになります。

ニューエイジは非組織的な一種の宗教現象で、この現象に対して霊性やスピリチャリティという言葉が使用されるケースも見られます。

1990年代以降は片仮名でスピリチュアリティと表記されることが多くなりましたが、霊性と同じものとして扱われることもあります。

スピリチュアリティという言葉はキリスト教などにおける霊性やニューエイジ運動を指す以外に、近年では医療の分野でも使われるようになっています。

1998年に世界保健機関は健康を「完全な身体的、心理的、スピリチュアル及び社会的福祉の動的な状態であり、単に疾病又は病弱の存在しないことではない。」と定義しています。

スピリチュアルという言葉が健康の定義に使用され、さらにクオリティ・オブ・ライフの評価尺度としても使用されます。

世界保健機関はスピリチュアリティ領域を測定するための尺度として「スピリチュアル、信仰、個人的信念」を作成しました。

こうしてスピリチュアリティという言葉はサブカルチャーだけでなく主流文化でも使われるようになります。

ターミナルケアやがん治療など終末医療の分野ではスピリチュアルケアが行われるようになりました。

スピリチュアルケアは「生きがいを持ちやすい人生観」への転換を推奨して、あらゆる事象に価値を見出すよう導くことで人間の心や魂の健全性を守ることを目的としています。

19世紀のフランスの教育学者で哲学者でもあったアラン・カルデック(1804年10月3日 - 1869年3月31日)が創始した新しい宗教はスピリティズムと呼ばれます。

日本ではスピリチュアリズムとスピリティズムはほぼ同じ意味で使われており、心霊主義や心霊術、降霊術を意味します。

日本では2000年代初頭に心霊主義にカウンセリング的な要素を加えた江原啓之がテレビで取り上げられ、スピリチュアルブームが起きました。

魔術的な意味でのスピリチュアルとは心霊主義のことです。

スピリチュアルについて

スピリチュアルとスピリチュアリティ、スピリチュアリズムは似た言葉ですが、それぞれに全く異なる意味合いがあります。

まず本来のスピリチュアルはラテン語のスピリトゥスに由来するキリスト教用語です。

宗教・精神的な物事や教会に関する事柄、神や聖霊、教会、魂、精神のという意味があります。

その他にも超自然的な、神聖ななどの意味が存在します。

様々な宗教などで非常に優れた性質や超人的な力を持つ不思議な性質、天賦の聡明さなどという意味で霊性という言葉が使われることがあります。

霊性は肉体に対する霊の意味でも使われます。

キリスト教では宗教心の在あり方やカトリック教会などにおける敬虔や信仰などの内実、伝統などを指します。

ラテン語のスピリトゥアリタスの英語訳であるスピリチュアリティが霊性の訳語とされることもあります。

カトリックの神学用語としての霊性は5世紀頃に発生しました。

神学用語として積極的に使用されるようになるのは20世紀初頭のことです。

その後はキリスト教だけでなく様々な宗教用語や一般的な文化用語としても使用されるようになりました。

・黒人霊歌について

アメリカでは黒人奴隷にキリスト教が広まり、白人の宗教歌とアフリカの音楽的な完成が融合して黒人霊歌が生まれます。

黒人霊歌はスピリチュアルと呼ばれています。

明確な音楽的特徴はなく黒人が関与した宗教歌を一般的に黒人霊歌と呼びます。

霊歌(スピリチュアル・ソング)という名称は、新約聖書のパウロ書簡である「エフェソスの信徒への手紙」と「コロサイの信徒への手紙」に由来しています。

酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。(エフェソの信徒への手紙 5:18~19)

キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。(コロサイの信徒への手紙 3:16)

19世紀初頭には野外礼拝用の賛美歌がスピリチュアル・ソングと呼ばれるようになります。

スピリチュアルが賛歌や黒人霊歌を指すようになったのは南北戦争後とされています。

黒人霊歌には奴隷の歌や賛美歌など様々な呼び方がありましたが、1960年代にはスピリチュアルという呼び方が一般化しました。

カタリ派について

・カタリ派の特徴

カタリ派は10世紀半ばに出現しフランス南部やイタリア北部で勢力を伸ばした民衆運動です。

現在は消滅していて資料が残っていないので詳しい思想や教義は分かりません。

カトリックはカタリ派がグノーシス主義的な二元論的教義を持っていたため異端認定したとしています。

神が創造した人間の精神が、悪魔が創造した肉体に囚われているという根本的な思想はボゴミル派から影響を受けた可能性があります。

グノーシス主義では世界はデミウルゴスによって創造されたと考えられていますが、カタリ派ではサタンによって創造されたとします。

カタリとはギリシャ語で「清浄なもの」を表す「カタロス」に由来しています。

また12世紀終わり頃からはアルビ派(アルビジョア派)とも呼ばれますが、アルビよりもトゥールーズの方が多くの信者を抱えていました。

カタリ派は人間の魂が物質世界に囚われていると考えます。

この世から逃れて非物質的な世界である天国に辿り着くため、世俗との関係を絶って禁欲生活を送ることを勧めました。

完全な禁欲生活を行う特別な信徒は「完徳者(ペルフェクティ)」と呼ばれます。

完徳者には人々の罪を取り除いて物質世界とのつながりを断ち切る力があるとされ、死後は天国に行くと信じられていました。

当時は正統派キリスト教会が堕落した状態にありましたが、完徳者の禁欲生活は対照的なものです。

カタリ派の運動はカトリック聖職者の汚職や堕落に民衆が反発したことが起源であると考えられています。

カタリ派の一般的な信徒は「帰依者(クレデンツ)」と呼ばれました。

帰依者は「慰めの式(救慰礼)」という儀式に参加できます。

この儀式はカタリ派の唯一の秘跡で、参加すると完徳者となり禁欲生活が課せられることになります。

女性も完徳者になることができ、「慰めの式」を取り仕切ることも可能でした。

完徳者になると肉食や性行為が禁止されます。卵やチーズ、バターなども食べることができません。

ただし魚や海の生き物は生殖行動をすると考えられていなかったため食べることができました。

カタリ派は新約聖書と外典だけを聖典と認め、旧約聖書を認めていません。

新約聖書中の二元論的表現や平等主義的表現を重視した点に特徴があります。

また神による一元的創造や三位一体、幼児の洗礼、免罪符、教会組織なども認めませんでした。

そのためカトリックから非難されることになります。

カタリ派には大規模な教会組織はなく、完徳者を中心とした小規模なグループが存在しました。

・カタリ派の滅亡

1028年のシャル-教会会議1056年のトゥールーズ教会会議においてカタリ派は正式に異端とされます。

またカトリックはカタリ派を改宗させる努力を続けますが、トゥールーズ伯など諸侯の庇護を受けていたため効果がありませんでした。

トゥールーズ伯などの諸侯はフランスの王権から独立しており、カタリ派の存在は次第に政治問題化します。

フランス王フィリップ2世は南フランスも支配下におきたいと考えており、ローマ教皇庁はカタリ派の拡大を阻止したいと考えていました。

両者の思惑が一致した結果、1209年にカタリ派とそれを保護する諸侯を倒すため十字軍(アルビジョア十字軍)が編成されます。

1229年にパリで和平協定が締結されトゥールーズ伯がフランス王への服従とカトリック信仰への復帰を表明しました。

また同年カタリ派対策として異端尋問制度が実施されます。

1244年にはカタリ派の最後の砦であったモンセキュールが陥落しました。

改宗を拒んだ多くのカタリ派信徒が処刑され、南フランスにおける影響力は低下することになります。

1321年には最後の完徳者であるギョーム・ベリパストが捕らえられました。

また1330年を過ぎると異端尋問所の資料からカタリ派の記述が見られなくなります。

信徒たちは各地に離散し、捕らえられて処刑されたり信仰を捨てて改宗したりします。

こうして徐々にカタリ派の運動は終息しました。

キリスト教とグノーシス主義

キリスト教グノーシス主義では各派により細かい違いがありますが、共通する神話が存在します。

神話によるとイエスは人間に本来的自己を認識させる啓示者・救済者です。

父なる神(至高者)から派遣されて旧約聖書の創造神(劣悪な造物主)に束縛されている人間を解放するため、本来的自己の認識を説く福音をもたらしました。

グノーシス主義ではユダヤ教やキリスト教が信仰する神は偽の神です。

・マルキオンとは

マルキオン(100年~160年)は2世紀のローマで活躍した異端のキリスト教徒です。

小アジア(トルコ)のシノペ出身なのでシノペのマルキオンと呼ばれます。

マルキオンは使徒パウロに傾倒しグノーシス主義の影響を受けていました。

彼の思想には物質=悪、霊=善というグノーシス主義の影響が見られ、144年には教会を破門されています。

その後ローマで独自の教会を設立しました。

マルキオン派は数世紀にわたって存続しエジプトやメソポタミア、アルメニアなどに広まります。

キリスト教徒の中で最初に聖書の「正典」という概念を打ち出したのがマルキオンです。

マルキオンは旧約聖書がキリスト教徒にとって不要であると考え、ルカの福音書やパウロ書簡に改変を加えつつ編纂を行いました。

一般的なキリスト教におけるグノーシス主義諸派には、創世記の独自解釈や新たな福音書の創作などの特徴が見られます。

一方でマルキオンは正典を限定しており認識(グノーシス)ではなく信仰を重視します。

マルキオンによる正典編集は、正統派のキリスト教徒にも影響を与えました。

2世紀以降に正統派キリスト教でも新約聖書の正典編纂が行われるようになります。

・ボゴミル派とは

ボゴミル派は10世紀中頃から14世紀末までブルガリアを中心にバルカン半島で信仰されました。

善悪二元論と現世否定を主張しており、正教会はボゴミル派を異端としています。

ボゴミル派は10世紀の中頃にブルガリア司祭のボゴミルが始めました。

当時のブルガリアでは東ローマ帝国への抵抗運動が行なわれておりボゴミル派と結びつきます。

正統派のキリスト教を凌いだ地域もありますが、ローマ帝国が衰退してオスマン帝国領となるとイスラム教が流入します。

ボゴミル派からイスラム教への改宗者が増えて衰退しました。

ボゴミル派はフランスのカタリ派にも影響を与えたとされます。

マニ教と同様に善悪二元論に特徴があります。

ボゴミル派の独自の神話によると真の神にはサタナエルとミカエルという2人の息子がいました。

サタナエルは神に反逆してサタナ(ギリシャ語でサタン)となります。

人間の魂は神が創造しましたが、肉体は混沌から悪魔であるサタナが造りました。イエス・キリストは地上に来たミカエルとされます。

もともとは人間が神を崇拝する約束がありましたが、サタナは神に反抗する目的で地上世界を造ります。

ボゴミル派によると、旧約聖書の神であるヤハウェは自分を神として人々に崇拝させようとするサタナであるとします。

人間の魂はサタナが造った悪しき肉体に拘束されており、救いのためには全ての物質的なものを否定する必要があります。

そのため結婚や肉欲、飲酒、肉食、教会の秘跡(儀式)なども否定されます。

ボゴミル派はグノーシス主義の影響を受けており霊=正義、物質=悪という善悪二元論を主張します。

聖像や十字架、東方正教会や東ローマ帝国などの権力、旧約聖書は悪魔に由来するため否定されました。

さらにキリストの受肉も否定されています。

仮現説とはイエスの身体性を否定する異端の教説です。

イエスの人としての誕生や行動、死は人間の目に現実と見えただけと考えます。

ボゴミル派は仮現説に近いという特徴があります。

グノーシス主義における二元論とは

グノーシス主義では偽の神であるデミウルゴスによって世界が造られたとされています。

そのため宇宙は本来的に悪であり、様々な宗教や思想が神々を善なる存在とするのは誤りであるとします。

グノーシス主義では善と悪の対立が二元論的に把握されます。

善とされる神々が悪であるこの世界を造ったのならば、実際は善ではなく悪であり偽の神ということになります。

従ってどこかに真の神と世界が存在すると考えます。

悪の世界は物質で構成されているので、物質や肉体も悪ということになります。

一方で霊やイデアは真の存在、真の世界と考えられます。

グノーシス主義の世界観は善と悪、真の神と偽の神、霊と肉体、イデアと物質という二元論に特徴があります。

さらに反宇宙論と結合して反宇宙論的二元論となりました。

ソピアー神話とは

アイオーンは古代ギリシャ語で「時代」や「世紀」、「人の生涯」などの意味があります。

グノーシス主義では真の神や高次の霊、霊的な階梯圏界を指します。

至高者の下には至高者に由来する様々な神的存在があり、グノーシス主義の神話では神的存在がアイオーンと呼ばれます。

グノーシス主義では超永遠世界をプレーローマと呼びます。アイオーンは複数存在 しています。

プレーローマで男性と女性のアイオーンが対となり両性具有状態にあるとされます。

ソピアー神話はアイオーンの1つであるソピアーの失墜と回復、分身の地上への落下を記した物語です。

デミウルゴスによる世界の創造と人間が背負った悲惨な運命が記されています。

ソピアーはプレーローマで最低次のアイオーンでした。

しかし知られざる先在の父(プロパトール)を理解したいという欲望を抱きます。

この欲望のためにソピアーはプレーローマから落下して分身のアカモートを生み出しました。

さらにアカモートは造物主であるデミウルゴスを生みます。

グノーシス主義の一派であるバルベーロ-派ではソピアーの娘であるバルベーロ-が地上において人間を救うとしています。

バルベーロ-はキリスト教における悪魔です。

グノーシス主義ではソピアーと同様にイエス・キリストもアイオーンであると考えられていました。

グノーシス主義の反宇宙論とは

グノーシス主義には様々な分派が存在しますが、一般的に反宇宙論と呼ばれる世界観を持っている点で共通しています。

反宇宙論では様々な問題を抱えるこの世界を「悪の宇宙」であると考えます。

グノーシス主義における反宇宙的とは悪に満ちたこの世界を受け入れない、認めない思想・立場のことです。

迷妄や希望的観測を排除して世界を眺めると、悪に満ちた絶望的な現実を見ることができます。

この宇宙は善ではなく悪に他ならないと考えるのが、グノーシス主義の反宇宙論です。

現在人間が生きている世界は悪の宇宙ですが、原初には真の至高神が創造した善の宇宙があったと考えます。

原初の世界は至高神が創造した充溢(プレーローマ)の世界ですが、至高神の神性(アイオーン)の1つであるソフィア(知恵)はヤルダバオートもしくはデミウルゴスと呼ばれる狂神を生み出します。

ヤルダバオートは「偽の神」の固有名です。

デミウルゴスはプラトンの「ティマイオス」に世界の創造者として登場しますが、グノーシス主義に援用されました。

旧約聖書の神であるヤハウェはグノーシス主義ではデミウルゴスとされ、固有名でヤルダバオートと呼ばれます。

ヤルダバオートは旧約聖書において悪い行いや傲慢さを誇示しており「偽の神」、「下級神」であるとされました。

グノーシス主義では愚劣な下級神がアルコーンとされ、ヤルダバオート(デミウルゴス)が第一のアルコーンと呼ばれています。

デミウルゴスは他にも多数のアルコーンを生み出しました。アルコーンは地上の支配者です。

人間の苦しみの原因である肉体や心魂はデミウルゴスが創造したものとされます。

そのため人間は肉体や心魂があるコーンの支配下にあります。

人間がデミウルゴスや様々なアルコーンに優越するためには霊が重要です。

グノーシス主義では霊が救済の根拠とされています。

つまり肉体と霊、悪と善の二元論です。

グノーシス主義の神話ではデミウルゴスが水に映った至高神を自分自身と錯覚して人間を創造したとされます。

「至高なる者」とはソピアーもしくはアイオーンの像のことです。

ソピアー(ソフィア)は古代ギリシャ語で「知恵」や「叡智」を表します。

古代ヘレニズム世界では智慧を象徴する女神とされました。

グノーシス主義やユダヤ教などではアイオーンという名前で世界の起源と関わります。

グノーシス主義について

グノーシス主義は1世紀に発生して3世紀から4世紀にかけて地中海沿岸に広まった宗教思想です。

反宇宙論と二元論に特徴があります。

グノーシスとはギリシャ語で「認識」や「知識」を意味しています。

様々な分派が存在しており、西方グノーシス主義と東方グノーシス主義に大別できます。

西方グノーシス主義はエジプトやシリア、パレスティナ、小アジアやギリシャ、ローマなどで栄えました。

代表的な宗派はヴァレンティノス派です。

ヴァレンティノス派ではグノーシス主義者とそうでない者が区別されました。

グノーシス主義者は禁欲を基本として世俗的な快楽や生殖行為を避けます。

またプロティノスの流出説を採り入れます。

善である永遠界は流出によって生まれますが、その過程でソピアー神話が示すように過失があったため悪の世界であるこの世が生まれたとします。

西方グノーシス主義は禁欲的で生殖を避けたので永続できず、4世紀から5世紀頃には消えました。

イランやメソポタミアで栄えた東方グノーシス主義の代表はマニ教やマンダ教です。

東方グノーシス主義は西方グノーシス主義より少し遅れて栄えました。

西方グノーシス主義の影響を受けている他に、ペルシアにおけるゾロアスター教など二元論的宗教の影響も受けます。

さらにイランやインドに古くから存在する神々や神話も採り入れました。

西方グノーシス主義が禁欲的なエリートによるものであったのに対して、東方グノーシス主義では信徒の階級が存在したため一般の人々も広く入信しています。

一般信徒は生殖が可能だったので永続することができました。

マニ教は3世紀のササン朝ペルシャでマニを開祖として生まれた宗教です。

寺院は現在も中国の福建省にあります。

マンダ教はイラクで現存しています。

イスラム教のコーランに記された正体不明な民族・宗派は自分たちであると主張し、イスラム教徒も認めたため存続することができました。

ユリアヌス帝とテウルギア

ユリアヌス帝(332年~363年)は最後の異教徒皇帝として知られており、キリスト教への優遇を改めたため背教者とも呼ばれます。

新プラトン主義を信奉し、キリスト教を新プラトン主義的な異教に置き換えようとします。

ユリアヌス帝は著作の中で太陽神ヘーリオスを神々と光の極致である理想的な範例で神的流出の象徴と主張し、大地母神キュベレーも信仰していました。

ユリアヌス帝はイアンブリコスの影響を受けており、供犠や祈りを重んじて祭儀的なテウルギアを支持しています。

ヘーリオスはギリシャ神話の太陽神です。

大地母神キュベレーはアナトリア半島のプリュギア(フリギア)で崇拝され、古代のギリシャやローマでも信仰されました。

キュベレーには「知識の保護者」という意味があります。

地母神とは多産や肥沃、豊穣をもたらす神で大地の豊かさを象徴します。

プラトンのイデア論について

イデア論とはプラトンが唱えたイデアに関する学説です。

イデアはギリシャ語で「見る」という意味がある「idein」に由来しています。

本来は「見られるもの」、「姿」、「形」を意味します。

ただし同じように「見る(ideo)」と関連する「eido」という言葉があり、その過去形である「eidon」に由来する「eidos(エイドス)」という言葉もあります。

エイドスは「形」や「図形」という意味で使用されていました。

プラトンはイデアとエイドスを使い分けています。

イデアの意味については時期によって変遷が見られます。

一般的に中期の理解がプラトン哲学におけるイデアの意味とされています。

プラトンはイデアという言葉を使用して心の目や霊の目で洞察される物事の真の姿や原型に言及しました。

かつて人間の魂は天上にありイデアだけを見て暮らしていたと中期のプラトンは考えます。

一方で汚れのために追放されて肉体(ソーマ)という牢獄(セーマ)に閉じ込められ、地上へ降りる途中でイデアをほとんど忘れたとします。

しかしイデアの模像である個物を見ることで思い出すことができるそうです。

人間が魂の内面を見つめ直し、イデアを想起すると物事を原型に即して正しく認識できるようになると主張しています。

プラトンによると想起(アナムネーシス)こそ真の認識です。

またphilosophia(愛知)とは死の練習であり、真のphilosopher(愛知者)は可能な限り魂を身体から分離開放して純粋な魂を保てるよう努力する者としています。

愛知者の魂の知の対象がイデアです。

philosophiaという言葉は明治時代に西周(1829年3月7日~1897年1月31日)が「哲学」と翻訳して有名になりました。

本来はギリシャ語のphilein(愛する)とsophia(知恵、知、智)が結合したもので、「愛智」という意味があります。

20世紀のカトリック神学者であるジャン・ルクレールによると、古代ギリシャにおいてフィロソフィアとは認識のための理論・方法ではなく知恵や理性に従う生き方を意味しており、中世の修道院でもこの用法が存続していたとされます。

プラトンの哲学ではこの世に本当に実在するのはイデアであって、肉体的に感知できる世界はあくまでイデアの似像に過ぎないとされます。

プラトンと新プラトン主義

新プラトン主義は3世紀に成立してヨーロッパにおける古代哲学の最後を締め括った潮流です。

ネオプラトニズムとも呼ばれます。

始祖とされるプロティノス(205年頃~270年)はプラトン(紀元前427年~紀元前347年)のイデア論を徹底させて流出説を唱えます。

流出説では完全なる一者(ト・ヘン)から段階を経て世界が流出し生み出されたとされます。

高次で純粋な世界から低次で物質的な世界へ流出が進み、最終的に現在の世界が形成されたとします。

プロティノスは流出過程を逆に辿ると純粋で精神的な高次世界に帰還できると考えました。

流出説は古代のグノーシス主義思想や中世のキリスト教神学にも影響を与えています。

一者の思想は一神教と結びつき、中世ヨーロッパにおけるキリスト教思弁哲学の基盤の1つになりました。

プロティノスの新プラトン主義は一般的に正統なものと見なされています。

一者への帰還にテウルギアを採り入れた、イアンブリコス(245年~325年)やプロクロスなどの後期新プラトン主義とは区別されます。

テウルギアを望む人々に対してプロティノスは観想(テオーリア)を勧奨しました。

観想によって神的なものと再統合(へノーシス)することを目標としたため、プロティノスの学派には瞑想や観照を行うという特徴があります。

プロティノスの弟子であるポルピュリオスのさらに弟子であったカルキスのイアンブリコスは、祈祷や魔術的な儀式を行うテウルギアを教えています。

イアンブリコスはテウルギアが神々の模倣であると信じました。

著書「エジプト人の秘儀」の中でテウルギア的祭儀は、受肉した魂に宇宙の創造と保護という神的責任を負わせる「儀式化された宇宙創成」であるとしています。

イアンブリコスによると観想では超越的な存在は理性で把握できないとされます。

テウルギアは存在の諸階層を通じて神的「しるし」を辿り、超越的な本質を回復するための儀式と作業であると主張します。

プロティノスの時代にはオリエントの影響で神秘思想が流行しており、新プラトン主義も影響を受けています。反対に新プラトン主義も神秘思想に影響を与えました。

ただしプロティノスはグノーシス主義を批判しています。

テウルギアとは

テウルギアとは神々の御業への祈願や来臨の勧請を目的として行なわれる魔術的な儀式のことです。

特に神々との合一や自己の完成が主な目的とされます。

日本では降神術や神働術、動神術、神通術などと訳されることがあります。

テウールギアーとゴエーテイアはギリシャ語で、古代末期のヨーロッパにおける対照的な魔術の類型です。

前者が神官などが行う高尚な魔術であるのに対して、後者は詐欺師のようないかがわしい人物が行う卑俗な魔術とされます。

ヨーロッパにおける古代の区分には諸説がありますが、概ね西暦200年から800年までの間とされています。

古代ローマの博物学者、政治家、軍人でもあったガイウス・プリニウス・セクンドゥス(23年~79年8月24日)はローマ帝国の属州総督を務める傍らで自然界を網羅する百科全書「博物誌」を執筆しました。

プリニウスは文人で政治家となった同名の甥を養子としており、一般的にはそれぞれ大プリニウス・小プリニウスと呼ばれています。

大プリニウスは「博物誌」の中で魔術は医術と宗教が混ざって無益な形態に堕した欺瞞的なものと批判しました。

魔術の実践者は魔術を擁護するため有利な説明を行ったり、高等なものと低俗なものを区別したりしています。

テウルギアには「神的な働き」という意味があり様々な解釈が存在します。

5世紀の新プラトン学派の哲学者であるギリシャのプロクロス(412年~485年)は、テウルギアを「あらゆる人智に勝る力であり、天恵である予言の才能や、秘儀伝授の清めの力を含む、あらゆる神憑りの業」と定義しました。

トート・タロットとは?

トート・タロットはアレイスター・クロウリーが1942年に女流画家のフリーダ・ハリスに描かせたタロットカードです。

1944年にクロウリーが出版したタロットの解説書である「トートの書」の挿絵として使用されました。

ただし実際にカードが出版されたのは1969年になってからです。

トート・タロットは基本的に黄金の夜明け団の教義に基づいていますが、クロウリーの独自の解釈が加えられました。

大アルカナと小アルカナの名称がかなり変更されています。

大アルカナの「正義」は「調整」、「運命の輪」は「運命」、「力」は「欲望」、「教皇」は「神官」、「節制」は「技」、「審判」は「永劫」、「世界」は「宇宙」とされました。

「審判」は一般的にキリスト教における最後の審判のことです。

トート・タロットではオシリスの時代の終わりとホルスの時代の始まりを象徴する「永劫」となっています。

クロウリーによればオシリスの時代は一神教の時代で、ホルスの時代は自らの内面に神性を見出す時代とされます。

小アルカナは「ペイジ(小姓)」が「王女」、「ナイト」が「王子」、「キング」が「ナイト」となっています。

「クイーン」はそのままです。トート・タロットにはキングとペイジが存在しません。

クロウリーは自身を「獣の主」と称し、「獣の印」と呼ばれる一筆書きの六芒星を使用していました。

トート・タロットには「獣の印」が描かれたものもあります。

同じように黄金の夜明け団から影響を受けたウェイト版では大アルカナの「正義」と「力」の番号を入れ替えて配列がヘブライ文字順になっています。

トート・タロットの配列はマルセイユ版と同じですが、ヘブライ文字との対応関係が入れ替わっています。

黄金の夜明け団ではタロットカードの正位置と逆位置の解釈を採り入れていなかったとされます。

トート・タロットも正位置と逆位置による解釈がありません。カードの背面には薔薇十字が描かれており、展開する前に上下が分かります。

トート・タロットでは生命の樹におけるカードの位置関係や隣接する四大元素との関係によって解釈を行います。

アレイスター・クロウリーについて

・アレイスター・クロウリーとは

アレイスター・クロウリーは19世紀後半から20世紀前半にかけて活躍したイギリスのオカルティストで登山家です。

自分自身をエリファス・レヴィの生まれ変わりと自称していました。

「法の書」を聖典として新しい宗教・哲学であるセレマを提唱しただけでなく、トート・タロットを考案したことでも知られています。

ロックミュージシャンなどにも大きな影響を与えました。

オジー・オズボーンの「ミスター・クロウリー(死の番人)」はアレイスター・クロウリーをモチーフにした曲です。

レッド・ツェッペリンのジミー・ペイジやデヴィッド・ボウイ、映画監督のケネス・アンガーなどがフォロワーとして知られています。

ビートルズのアルバム「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」のジャケットにも姿を見ることできます。

アレイスター・クロウリーは1875年10月12日にイングランドのウォリックシャー州ロイヤル・レミントン・スパでビール酒造業者の家に生まれました。

両親はブレザレン派のキリスト教徒で、エドワード・アレグザンダー・クロウリーと名付けられます。

ブレザレン派はイギリス国教会から分離したカルヴァン主義の一派です。

アレイスター・クロウリーは1885年にブレザレン派の寄宿学校に入学しますが、厳格なキリスト教教育に反発して退学しオカルトに傾倒するようになります。

1887年に父のエドワードが死亡すると多額の遺産を相続します。その後は遺産だけで生活するようになり、1892年にはパブリックスクールに入学したもののすぐに退学しました。

ケンブリッジ大学卒業間近の1898年には黄金の夜明け団に入団しています。

1906年6月には黄金の夜明け団において内紛が起こり脱退します。

その後は世界各国を遍歴する旅に出ており、日本や上海、スリランカなどを訪問しています。

1904年3月には新婚旅行中のエジプトのカイロでアイワスという霊的存在からメッセージを受けて「法の書」を執筆しました。

1907年に黄金の夜明け団の中心的な魔術師の1人であったジョージ・セシル・ジョーンズと共に魔術結社「銀の星」を結成します。

ジョーンズはクロウリーの協力者として様々な魔術実験を行い、私生活でもクロウリーが離婚する際の信託基金管理者となっています。

1910年に新聞がクロウリーとジョーンズは同性愛の関係にあったと攻撃したため、ジョーンズは名誉毀損裁判を起こしました。

しかしジョーンズの名誉は回復できず、クロウリーとの関わりも終わり魔術の世界から去ります。

1910年にアレイスター・クロウリーは東方聖堂騎士団(Ordo Templi Orientis、O.T.O.)の首領であるテオドール・ロイスから3位階を授与されており、1912年にはグレート・ブリテンとアイルランドの責任者に就任しました。

東方聖堂騎士団のイギリス支部も開設しています。

1920年にはシチリア島のチェファルでテレマ僧院を開設しました。

麻薬や性行為による儀式を行っていましたが、ジステンパーに感染した猫の血を飲んだ男性信者が死亡したため国外退去となります。

その後は各地を転々と放浪します。

1925年に東方聖堂騎士団の「団の外なる首領」(the Outer Head of the Order、OHO)に就任しました。

「セレマの法」に基づいて東方聖堂騎士団を指導することになります。

1947年12月1日にイングランドのイースト・サセックス州ヘイスティングスで72歳で死去しました。

・東方聖堂騎士団とは

Ordo Templi Orientisとはラテン語で「東洋のテンプル騎士団」または「東方の神殿の修道会」という意味があります。

テオドール・ロイス(1855~1923)がオーストリアの化学者で実業家でもあったカール・ケルナー(1851~1905)と共に設立しました。

ドイツもしくはオーストリアで1895年から1906年の間に設立されたと考えられています。

ケルナーが1895年にロイスにアカデミア・マソニカ(メイソン大学)の構想を語ったことが発端とされていますが、確実な設立時期は分かっていません。

1906年にロイスが私的に出版した「オリフラム」誌には、「東方聖堂騎士(der Orientalischen Templer)」という記述が見られます。

東方聖堂騎士団は国際的な友愛結社で宗教団体でもあります。

当初はフリーメイソンを模倣した団体でしたが、クロウリーの指導により「セレマの法」を中心的な教義とする宗教団体として再編されています。

・テンプル騎士団とは

テンプル騎士団(Pauperes commilitones Christi Templique Solomonici)とは中世ヨーロッパで活躍した騎士修道会です。

ラテン語の正式名称には「キリストとソロモン神殿の貧しき戦友たち」という意味があります。

日本語では「神殿騎士団」や「聖堂騎士団」などとも呼ばれます。

十字軍の活動が開始されてから多くの騎士修道会が誕生しました。

騎士修道会は構成員が武器を持って戦闘にも従事します。

特にテンプル騎士団は有名で1099年に第1回十字軍が終了した後の1119年に創設されました。

創設目的はヨーロッパからエルサレムへ向かう巡礼者の保護です。

・第1回十字軍について

1095年にローマ教皇ウルバヌス2世の呼びかけにより、キリスト教の聖地であるエルサレムを回復するための軍事行動が開始されました。

第1回十字軍では騎士だけでなく一般民衆もエルサレムを目指しました。

十字軍はイスラム教徒撃破して1099年7月15日にエルサレムを占領します。

エルサレム王国など十字軍国家と呼ばれる国家群がパレスティナに成立しています。

第1回十字軍は西洋諸国が初めて共通の目的のために行動した運動でした。

その後何度も十字軍運動が起きますが、当初の目標を達成したのは第1回十字軍のみです。

セレマとは

セレマは「汝の意志することを行え」という規則に基づく一種の宗教で哲学でもあります。

イギリスのオカルティストで登山家でもあったアレイスター・クロウリー(1875年10月12日~1947年12月1日)が、著書の「法の書」を聖典として宗教・哲学であるセレマを提唱しました。

セレマとは古代ギリシャ語のコイネーであるテレーマをラテン文字に転写したものです。

テレーマには「意志」という意味があります。

初期のキリスト教における書物では神や悪魔、人間の意志として使用されています。

フランス語ではテレームになります。

16世紀のフランスにおけるルネサンスを代表する人文主義者で作家だったフランソワ・ラブレーは、著書の「ガルガンチュワとパンタグリュエル」の中で架空の僧院の名称としてテレームを使っています。

第一之書である「ガルガンチュワ物語」は1534年もしくは1535年に出版されました。

巨人パンタグリュエルの父であるガルガンチュアワの生涯を描いています。

物語はガルガンチュアの出生と少年時代から始まります。

ガルガンチュワは隣国の暴君であるピクロコール王との間で戦争となりますが、修道士ジャンの活躍により勝利します。

テレームの僧院はジャンの希望によって建てられます。

僧院には教養のある男女のみが入ることができ、唯一の規律は「汝の欲するところを行え」でした。

「ガルガンチュワとパンタグリュエル」は巨人一族を巡る物語です。

中世の巨人伝説を題材とした騎士道物語のパロディで、パリ大学や教会など既成の権威を風刺する内容を含んでいたため禁書となっています。

テレームの僧院は現実の修道院を風刺するものです。

18世紀になるとイギリスのフランシス・ダッシュウッド男爵(1708年12月~1781年12月11日)が秘密結社「地獄の火クラブ」を結成します。

フランシス・ダッシュウッド男爵はバッキンガムシャー州の裕福な名門貴族で、1753年に黒ミサを行う地獄の火クラブを結成しました。

クラブは1762年に大蔵大臣に指名されるまで存続しています。

バッキンガムシャー州のマーローにあるメドメナムには1201年に建てられたシトー会の修道院がありました。

修道院はフランシス・ダッシュウッドから名前を取ったフラシアン(地獄の火クラブ)と呼ばれるクラブの集会所として利用され悪評が立ちます。

クラブの信条である「汝の意志することを行え」は、ガルガンチュワ物語に登場するテレームの僧院を真似て修道院の入り口に刻まれました。

さらに「汝の意志することを行え」という規則は20世紀にアレイスター・クロウリーが「法の書」で使用しています。

「法の書」はアレイスター・クロウリーが1904年に出版したセレマの聖典の通称です。

正式には「エルの書」もしくは「二百二十の書」と表記されます。

この本には1904年4月8日から4月10日にかけてクロウリーがエジプトのカイロでアイワスから受信したメッセージが記されています。

アイワスはクロウリーに「法の書」を伝えた知性体で、クロウリーは後にアイワスを自分の聖守護天使と見なすようになります。

ウィッカとは

ウィッカはネオペイガニズムの一種です。

ペイガニズムとは自然崇拝や多神教の信仰を包括的に指す言葉で、アブラハムの宗教の視点から使用されます。

アブラハムの宗教とは一神教のユダヤ教とキリスト教、イスラム教のことです。ペイガニズムは侮蔑語や差別用語として使用されることがあります。

1960年代以降のアメリカではペイガンと自己規定する人々による様々な宗教運動が発生しました。

近年では数千人以上の人々がペイガンやネオペイガンを自称し、ペイガニズムという言葉を従来と異なる価値観で使用しています。

ネオペイガニズムは復興異教主義とも呼ばれます。

現代における様々な宗教運動のことです。

ネオペイガニズムという概念はペイガニズムから影響を受けた様々な宗教運動を包括します。

ウィッカもネオペイガニズムの一種とされる新宗教で、古代ヨーロッパの多神教的な信仰や女神崇拝を復活させました。

魔女術(ウィッチクラフト)の中でも多数派を占めるとされています。

ウィッチクラフトとは魔女の魔術や呪い、占いやハーブなど生薬の利用方法などと関連する知識や技術、信仰を集合した概念です。

技術よりも信仰の側面が強いので、日本では魔女宗と呼ばれることがあります。

ウィッカは現代におけるウィッチクラフト諸流派の総称として使用されることがあります。

最初にウィッカという言葉が登場したのは、1954年にイギリスのオカルティストであるジェラルド・ガードナー(1884年6月13日~1964年2月12日)が出版した「今日のウィッチクラフト」です。

ガードナーはウィッチクラフトの伝統を信奉する者をウィッカと表現しました。

しかし1960年頃からウィッカはガードナー派ウイッチクラフトと、よく似た流派であるアレクサンダー派のウイッチクラフトを指す言葉として使われるようになります。

さらに魔女の宗教を包括的に表現する言葉として使用されるようになりました。

ジェラルド・ガードナーは魔女の宗教をウィッチクラフトと読んでいましたが、事実上ウィッカの創始者とされています。

魔術結社「黄金の夜明け団」について

黄金の夜明け団は1887年にイギリスで創設されました。黄金の暁会やゴールデン・ドーンなどとも呼ばれます。

1903年に廃止されますが、現代の魔術の中心であるウィッカやセレマ、テウルギア、スピリチュアルなどの儀式や概念に大きな影響を与えています。

黄金の夜明け団はフリーメイソンの会員であるウィリアム・ロバート・ウッドマンとウィリアム・ウィン・ウェストコット、マグレガー・メイザースによって設立されました。

組織は大きく3つの階級に分かれています。第一の階級である黄金の夜明け団(狭義)はカバラや四元素、占星術やタロット占い、ジオマンシーなどを専門とします。

第二の階級であるルビーの薔薇と黄金の十字架団はスクライングやアストラル投射、錬金術を扱います。

第三の階級は秘密の首領で様々な魔術に熟練したものだけで構成されます。

これら3つの階級を総称したものが黄金の夜明け団(広義)です。

イギリスにおける神秘主義

神秘主義や占い用のタロットカードはフランスで発展しましたが、イギリスでもエリファス・レヴィの影響を受けた魔術結社「黄金の夜明け団」が結成されます。

黄金の夜明け団はタロットとヘブライ文字や7惑星・12星座の関連付けを改めて行っています。ヘブライ文字は「愚者」にアレフ、「魔術師」にベートが当てはめられており、タロットの番号順にヘブライ文字が対応します。

この対応関係はエリファス・レヴィの説とは異なるものです。占星術との対応関係もエッティラから続く伝統的な解釈とは異なります。

黄金の夜明け団は小アルカナのワンド(杖)とカップ、ソードとペンタクル(硬貨)にカバラ創造論におけるアツィルト、ブリアー、イェツィラー、アッシャーの4世界を当てはめました。

さらにキングとクイーン、ナイトとペイジにはコクマー、ビナー、ティファレト、マルクトという4つのセフィラと四大元素である火と水、風と地を当てはめています。

カバラでは世界をアツィルト、ブリアー、イェツィラー、アッシャーの4つに分類します。

4段階で世界が構成されていると考えるのが特徴です。アツィルトは流出界、ブリアーは創造界、イェツィラーは形成界、アッシャーは物質界とされています。

10のセフィラのうちケテル、コクマー、ビナーが作る三角形がアツィルトで至高の世界とされます。

コクマーとビナー、ケセド、ゲブラー、ティファレトが作る五角形で表される世界がブリアーです。

ケセドとゲブラー、ネツァク、ホド、イェソドが作る五角形はイェツィラーと呼ばれます。

ネツァク、ホド、マルクトが作る三角形はアッシャーを表します。

カバラタロットではアツィルトがソード、ブリアーがワンド、イェツィラーがカップ、アッシャーがペンタクルに対応しています。

パピュスのタロット(ステファン版)とは

パピュス(1865~1916)は19世紀末から20世紀初頭にかけてフランスで活躍した魔術師です。

本名はジェラール・アンコースといいます。

若い頃から学業優秀で後にパリ大学の医学部に入り1894年には医学博士号を授与されました。

医学生時代に錬金術に興味を持ち、魔術や東洋思想の研究を始めます。

1890年にはスタニスラス・ド・ガイタ侯爵が設立した「薔薇十字カバラ団」に加入しました。

「薔薇十字カバラ団」は1888年に設立され、19世紀末を代表する魔術師のジョゼファン・ペラダンやスイスの隠秘学者でタロット研究科でもあるオズワルド・ウィルトなどが参加しています。

パピュスはカバラの基本文献である「形成の書」のヘブライ文字と世界を構成する諸要素を対応させるという思想を抱いていました。

この思想に基づいてタロットカードを媒介にヘブライ文字を7つの惑星と12の星座に対応させています。

大アルカナとヘブライ文字の対応関係はエリファス・レヴィの説に則ったものです。

また大アルカナと惑星・星座の関係については基本的にエッティラの説を踏襲しつつ多少修正しています。

「形成の書」にタロットカードとヘブライ文字、占星術の3つを具体的に結びつける記述はありません。

パピュスはエリファス・レヴィが考案したタロットカードとヘブライ文字の対応関係に従ってカードを並べ替えています。

ヘブライ文字のアルファベット順に並べ替えられ、愚者のカードが21番になり世界のカードは22番とされました。

旧約聖書と新約聖書における唯一神の名がヤハウェとされます。

ヤハウェを表すヘブライ語の4つ子音文字は神聖四文字やテトラグラマトンと呼ばれています。

神聖四文字はラテン語で「YHVH」や「YHWH」、「JHVH」、「JHWH」、「IHVH」などと翻字されます。

パピュスは神聖四文字のYHVHを小アルカナのワンドとカップ、ソード、コインに対応させました。

さらに各スートの1から10までの数札に生命の樹におけるケテルからマルクトまでのセフィラを対応させています。

1889年には「ジプシーのタロット」という理論書を発表しました。オズワルド・ウィルトは1889年にマルセイユ版をエリファス・レヴィの説に基づいて修正したタロット22枚を制作しています。

世界で初めてヘブライ文字と対応させたこのタロットは、350セットが限定販売される一方でパピュスの「ジプシーのタロット」の挿絵にも使用されました。

パピュスは1909年に「タロット占術」という本を出版しています。

この本にはエッティラやエリファス・レヴィの影響を受けたジャン・ガブリエル・グーリナが描いた挿絵が使用されていました。

パピュスのタロット(ステファン版)はジャン・ガブリエル・グーリナ(1883~1972)による挿絵に基づいて、1981年にフランスのオリヴァー・ステファンが制作したものです。

エドモン・ビロードとオラクルベリーヌ

エドモン・ビロード(1829~1881)はナポレオン3世に仕え、19世紀のパリで有名だった占い師です。
ヴィクトル・ユゴーの亡命やアレクサンドル・デュマの成功、ナポレオン3世のセダンの戦いにおける敗北を予言しました。

1845年頃には独自のオラクルカードである「オラクルベリーヌ」を考案しています。

またエドモンはエリファス・レヴィの影響を受けて独自のタロットを制作しました。

エドモンのオラクルカードとタロットカードは、1950年代にパリで有名だった占い師のベリーヌ(1924~2002)によって発見されます。

後にフランス・カルタ社よって復刻されました。

エドモンのタロットカードは「グラン・タロー・ベリーヌ」という名称で復刻されています。

大アルカナのデザインは、19世紀の魔術師で作家でもあったポール・クリスチャンによる「魔術の歴史と実践」から影響を受けたものです。

・オラクルカードとは

「オラクル」には神託という意味があり、神様のお告げや思し召しを指します。

オラクルカードには天使や妖精などが描かれており、様々なメッセージが書かれています。

悩みや心配に対処する方法を教えてくれます。

タロットカードもオラクルカードと同じように悩みを解決する働きがあります。

しかしタロットカードのメッセージは間接的です。

カードに質問をしながら意味を読み解く必要があります。

オラクルカードには最初からメッセージが書かれています。

そのためタロットと比較してより直接的に意味を理解することができます。

タロットカードを解釈するには知識が必要ですが、オラクルカードは直感力が重要になります。

エッティラとエッティラ版タロットカード

・世界最初の職業タロット占い師ジャン・バプティスタ・アリエット(エッティラ)

ジャン・バプティスタ・アリエット(1738年~1791年)はエテイヤ、エッティラなどと呼ばれる18世の占い師です。

エッティラは1738年3月1日にフランスのパリで生まれました。

一般的に知られるエッティラ(Etteilla)という名前は、本名のアリエット(Alliette)のアルファベットを反対にしたものです。

タロットカードを使用する世界で最初の職業占い師として有名です。

クール・ド・ジェプランのタロット・エジプト起源説から影響を受けて、1789年に世界で初めて占い専用のタロットカードを出版します。

アンソニー・クール・ド・ジェプランはフリーメイソンの会員で考古学者、牧師でもあります。

1781年に「原始世界(Monde Primiif)第8巻」を出版しました。

この本の中でジェプランはタロットカードが古代エジプトの「トート書」の名残であると主張します。

かなりいい加減な説でしたがエッティラはこの説から大きな影響を受け、1791年に「トートの書の理論と実践」を出版してジェプランのエジプト起源説を補います。

この当時はヨーロッパで古代エジプトが流行しており、珍説が急速に普及しました。

1783年にエッティラは「タロットと呼ばれるカード遊びの楽しみ方(Maniere de se recreer avec le jeu de cartes nommees tarots)」という4分冊の本を出版します。

「タロットと呼ばれるカード遊びの楽しみ方」はタロット占いを中心的な内容とする世界最初の本です。

エッティラのタロットは古代エジプトの賢者ヘルメス・トリスメギストスの教えに基づいており、絵柄など一般的なものとはかなり異なります。フランスのグリモー社が復刻したものが有名です。

1791年にエッティラが亡くなってから8年後の1799年、エジプトのロゼッタでロゼッタ・ストーンが発見されます。

ロゼッタ・ストーンは紀元前196年にプトレマイオス5世によってメンフィスで出された勅令が刻まれた石碑の一部です。

古代エジプト語の神聖文字(ヒエログリフ)と民衆文字(デモティック)、ギリシア文字で記されています。

ヒエログリフは1822年にジャン=フランソワ・シャンポリオンによって解明されました。これによってタロット・エジプト起源説は完全に否定されています。

エッティラが主張したタロット・エジプト起源説は否定されましたが、エッティラ版タロットの理論書である「タロットと呼ばれるカード遊びの楽しみ方」は後世に大きな影響を残しています。

現在まで続くタロット占いやカード占いの基礎を築いただけでなく、タロットカードと占星術を世界で初めて結びつけました。

エリファス・レヴィはエッティラの説を批判していますが、タロットと魔術を結びつけた業績については認めています。

・エッティラ版タロットについて

エッティラ版タロットは古代エジプトの賢者ヘルメス・トリスメギストスの教えなどに基づいて制作されているため、マルセイユ版とは大きな違いがあります。

例えばマルセイユ版で0番とされる「愚者」はエッティラ版では78番です。

マルセイユ版では5番の「教皇」はエッティラ版では「男性の質問者」とされています。

大アルカナのタイトルはマルセイユ版とかなり異なります。

エッティラによると2番から7番までの大アルカナの順番は世界の創造を表しており、8番は創造後の休息です。

旧約聖書にある世界創造の物語も採り入れられました。エッティラ版8番の「女性の質問者」はマルセイユ版の2番である「女教皇」に対応しています。

9番から12番までは4つの枢要徳を表します。

枢要徳とは古代ギリシャ以来のヨーロッパの中心的な徳目で四徳や四元徳とも呼ばれます。

9番は「正義」で10番が「節制」、11番が「剛毅」で12番が「賢明」です。

マルセイユ版では8番の「正義」と14番の「節制」、11番の「力」と12番の「吊るされた人」に対応しています。

マルセイユ版で12番の「吊るされた人」はクール・ド・ジェブランのタロット・エジプト起源説によれば当時のカード職人によって間違って描かれたとされます。

クール・ド・ジェブランは本来「吊るされた人」は「賢明」を表しており、逆さまの人物ではなく片足立ちだったと主張しています。

そのためエッティラ版では「吊るされた人」が「賢明」になりました。

マルセイユ版2番の「女教皇」はエッティラ版では8番の「女性の質問者」となっており、図柄はエヴァが描かれています。

これはエッティラがヘルメス哲学や錬金術と旧約聖書の世界創造を結びつけたためです。

エッティラ版の1番から12番までは、占星術の12サインが白羊宮から双魚宮まで当てはめられました。

12サインとは西洋占星術で使用される黄道を30度ずつ分割した十二星座のシンボルのことです。

また2番から5番までのカードには四元素である火・水・空気・土を対応させています。

さら逆位置の解読法を最初に採用したのがエッティラ版タロットです。

エッティラ版タロットは神秘主義的なタロットカードの元祖となり一時期マルセイユ版を隅に追いやって主流となったこともありました。

ヘルメス哲学とキリスト教神秘主義

・ヘルメス哲学とは

ヘルメス・トリスメギストスは神秘思想や錬金術に登場する神人で伝説的な錬金術師でもあります。

ギリシャ神話のヘルメス神とエジプト神話のトート神がヘレニズム時代に融合しました。

さらに錬金術師ヘルメスがヘルメス神とトート神の威光を継ぐ者とされ、ヘルメス・トリスメギストスと呼ばれるようになります。

3つのヘルメスを合わせる存在という意味で、「3倍偉大なヘルメス」や「三重に偉大なヘルメス」などと訳されます。

ヘルメス・トリスメギストスはエメラルド板やヘルメス文書の著者とされました。

エメラルド板はエメラルド・タブレットやタブラ・スマラグディーナ、エメラルド碑などとも呼ばれます。

12の錬金術の奥義が記されたものとされています。

エメラルド板の実物は現存していません。10世紀頃にアラビア語からラテン語に訳された写本が残っています。ヘルメス文書はヘルメティカ文書とも呼ばれます。

神秘主義的な古代思想の文献写本の総称です。

中世の錬金術師はヘルメス・トリスメギストスが賢者の石を手に入れた唯一の人物と考えました。賢者の石とは鉛などの卑金属を金に変えるための触媒となる霊薬のことです。

「ヘルメス思想」とはヘルメス・トリスメギストスのように世界の神秘を明らかにしようとする考えを指します。

・キリスト教神秘主義とは

キリスト教神秘主義は三位一体の神である父と子と聖霊を直接的に経験するための哲学と実践を指します。

伝統的な実践方法としては読書と祈り、自己制限と他者や神への奉仕が挙げられます。

キリスト教神秘主義は初代教会の頃から伝わる伝統的な実践方法です。

一般的なキリスト教の教理では、聖書を学びイエス・キリストを信じ教会の儀式に参加すると神に近づくことができるとされます。

キリストに倣うことで知性では到達不可能な霊的真理を把握しようとする点に特徴があります。

新約聖書の主な文書は西暦150年頃までに成立したと考えられています。

キリスト教が迫害を受けながらローマ帝国内で広がり、皇帝テオドシウス1世が380年に国教とする以前に成立した教会は初代教会や原始教会、原始教団などと呼ばれます。


生命の樹における10のセフィラ(球)と22のパス(小径)について

・10のセフィラと世界創造の過程

生命の樹における10のセフィラとはケテルとコクマー、ビナー、ケセド、ゲブラー、ティファレト、ネツァク、ホド、イェソド、マルクト、ダアトです。

神であるアイン・ソフの聖性はケテル→コクマー→ビナー→ケセド→ゲブラー→ティファレト→ネツァク→ホド→イェソド→マルクドの順に進んで世界を創造します。

ビナーとケセドの間には隠されたセフィラであるダアトがあります。

アインは無と訳され0で表されています。

アイン・ソフは無限という意味があり00で表現されます。

アイン・ソフ・オウルは無限光とよくされ000で表されています。

カバラではアインからアイン・ソフが生まれ、アイン・ソフからアイン・ソフ・オウルが生じるとされます。

・各セフィラの意味

ケテル(王冠)は第1のセフィラです。数字は1。白色、ダイヤモンド、海王星を象徴します。

王の横顔で表され神名はエヘイエー、メタトロンが守護天使です。

最後の剣とされるマルクトと通じています。

コクマー(知恵)は第2のセフィラで数字は2です。

灰色、トルコ石、天王星、男性原理を象徴します。

コクマーは至高の父とも呼ばれます。神名はヨッドで守護天使はラツィエルです。

ビナー(理解)は第3のセフィラで数字は3です。

黒と真珠、鉛、土星、女性原理を象徴します。

至高の母とも呼ばれ成熟した女性で表されます。神名はエロヒムで守護天使はザフキエルです。

ケセド(慈悲)は第4のセフィラで数字は4です。

ゲドゥラーとも呼ばれます。青と錫、正四面体、サファイア、木星を象徴します。

玉座の王で表され神名はエル、守護天使はザドキエルです。

ゲブラー(峻厳)は第5のセフィラで数字は5です。

赤と正五角形、鉄、ルビー、火星を象徴します。天空の外科医とも呼ばれます。

神名はエロヒム・ギボールで守護天使はカマエルです。

ティファレト(美)は第6のセフィラで生命の樹の中心にあります。

数字は6です。黄色と金、太陽を象徴します。

太陽は恒星ですがカバラでは惑星と見なされます。神名はエロハで守護天使はミカエルです。

ネツァク(勝利)は第7のセフィラで数字は7になります。

緑と銅、エメラルド、金星を象徴します。全裸の女性で表されます。

神名はアドナイ・ツァバオトで守護天使はハニエルです。

ホド(栄光)は第8のセフィラで数字は8になります。

橙色と水銀、水星を象徴します。

神名はエロヒム・ツァバオトで守護天使はラファエルとされます。

イェソド(基礎)はアストラル界を表す第9のセフィラで数字は9です。

紫と銀、月を象徴します。月は衛星ですが惑星と見なされます。

裸の男性で表現されています。

神名はシャダイ・エル・カイで守護天使はガブリエルです。

マルクト(王国)は物質世界を表す第10のセフィラで数字は10とされます。

レモン色やオリーブ色、小豆色、黒の四色、水晶、地球を象徴します。

玉座に座る若い女性で表され、神名はアドナイ・メレクで守護天使はサンダルフォンとされています。

守護天使はシェキナとする説もあります。

シェキナはメタトロンと対をなす神の女性的な顕現です。

ダアト(知識)は隠れたセフィラでダートと表現されることもあります。

天王星を象徴しており他のセフィラとは異なる次元に存在します。

ダアトが存在するのは生命の樹の深淵です。

他のセフィラの完全体・共有体であるという説もあります。

悟りや気づき、神の真意などの意味が隠されています。

神の真意は基本的に隠されており、賢い者は試練として見つけようとします。

・22の小径(パス)とは

小径(パス)は各セフィラの間のことです。

全部で22個存在し、タロットカードの大アルカナと対応しています。

各小径の名称はヘブライ文字のアルファベットです。

1.アレフ:ケテル-コクマー間、「愚者」
2.ベート:ケテル-ビナー間、「魔術師」
3.ギーメル:ケテル-ティファレト、「女教皇」
4.ダレット:コクマー-ビナー、「女帝」
5.ヘー:コクマー-ティファレト、「皇帝」
6.ヴァヴ:コクマー-ケセド、「教皇」
7.ザイン:ビナー-ティファレト、「恋人」
8.ヘット:ビナー-ゲブラー、「戦車」
9.テット:ケセド-ゲブラー、「力」
10.ヨッド:ケセド-ティファレト、「隠者」
11.カフ:ケセド-ネツァク、「運命の輪」
12.ラメド:ゲブラー-ティファレト、「正義」
13.メム:ゲブラー-ホド、「吊された男」
14.ヌン:ティファレト-ネツァク、「死神」
15.サメフ:ティファレト-イェソド、「節制」
16.アイン:ティファレト-ホド、「悪魔」
17.ペー:ネツァク-ホド、「塔」
18.ツァディー:ネツァク-イェソド、「星」
19.コフ:ネツァク-マルクト、「月」
20.レーシュ:ホド-イェソド、「太陽」
21.シン:ホド-マルクト、「審判」
22.タヴ:イェソド-マルクト、「世界」

エリファス・レヴィと神秘主義

エリファス・レヴィ(1810年2月8日~1875年5月31日)はフランス・パリ出身のロマン派詩人で隠秘学思想家でもあります。

本名はアルフォンス・ルイ・コンスタンです。41歳のときにヘブライ語風のエリファス・レヴィに改名しています。

19世紀のロマン主義文学の中にフランスやドイツ、イギリスで小ロマン派と呼ばれる一派が存在しました。

エリファス・レヴィは当初小ロマン派の文芸サロンと関わっていましたが後にカバラや錬金術、キリスト教神秘主義などの研究を行うようになります。

近代ヨーロッパにおける魔術復興の象徴的な存在です。

エリファス・レヴィは魔術を理性に基づく合理的な科学であると主張しました。

古代の密儀やタロット、儀式魔術などを1体系の魔術として統括しようとします。

1854年に発表した「高等魔術の教理と祭儀」に書かれたオカルティズムに基づく神秘思想は当時のパリの人々に大きな影響を与えます。

19世紀半ばから20世紀までの魔術復興とオカルト思想を象徴する存在となりました。

「高等魔術の教理と祭儀」にはタロットカードの解説も含まれています。

同書は現代まで世界中でタロット解釈解説書の定番とされてきました。

エリファス・レヴィの影響を受けてタロットカードにもカバラ思想や神秘主義に基づく解釈が採り入れられるようになります。

エリファス・レヴィは同書の中で大アルカナ22枚とヘブライ語のアルファベット22文字の対応関係を主張しています。

過去に制作された様々なタロットカードも同書に基づいて解釈されるようになりました。

エリファス・レヴィはイギリスの人々にも影響を与えます。

イギリスでもタロットの神秘的解釈が行われるようになり、1910年にはアーサー・エドワード・ウェイトが黄金の夜明け団の教義に基づくカバラ思想・神秘的象徴を採り入れた「ウェイト版タロット」を制作しました。

ウェイト版タロットが出版されると、世界中で同様に神秘的解釈を採り入れたタロットカードが制作されるようになります。

・オカルティズムについて

オカルティズムはオカルト主義、神秘学、隠秘学や玄秘学などと呼ばれます。

本来は占星術や錬金術、魔術などの実践を指します。

一般的に近代における西洋の神秘思想や、フリーメイソンのような秘密結社における教義や世界観の実践などに適用されます。

・カバラとは

カバラはユダヤ教の伝統に基づく神秘主義思想です。

ユダヤ・カバラとクリスチャン・カバラに分類することができます。

もともとはユダヤ教徒が旧約聖書の解釈に利用していました。

ゲオーニーム時代には口伝律法を指す言葉として用いられていたこともあります。

タルムードが完成した後の6世紀から11世紀において、バビロニア地方のユダヤ人コミュニティと学塾(イェシーバー)におけるイェシーバー長の称号がゲオーニームです。

ゲオーニームは6世紀から11世紀におけるユダヤ教徒の指導者でした。

ユダヤ教において神がモーセに与えた書かれた律法をトーラーと呼びます。

一方で口伝で語り継ぐべきものとして与えられたとされるのが口伝律法(口伝のトーラー)です。

口伝律法を収めた文書群がタルムードと呼ばれます。

タルムードは多くのユダヤ教教派において聖典とされており、ユダヤ教徒の生活と信仰の基となっています。

英語に翻訳されたエルサレム・タルムードなども存在しますが、ヘブライ語のバビロニア・タルムードだけが聖典とされます。

本来カバラは律法の遵守や真意を学ぶことを目的としており秘教的な神秘思想ではありませんでした。

しかしキリスト教徒の神秘主義者によって個人的な神秘体験の追究手段となります。

ユダヤ教の伝説によるとカバラはアブラハムが司祭メルキゼデクから教えられた天界の秘密、もしくはモーセがトーラーに記述しきれなかった部分を口伝として伝えたものとされます。

3世紀から6世紀頃に体系化され始め、16世紀頃にほぼ現在の体系が完成したとされています。

アブラハムはユダヤ人の祖先です。

メルキゼデクは旧約聖書の創世記14章に登場し、いと高き神の司祭でサレムの王とされています。

アブラハムがエラム王と盟友の連合軍に勝利してソドムの捕虜と財産、甥のロトを救出して帰還した際に、祝福するためメルキゼデクがパンとぶどう酒を持って現れました。

クリスチャン・カバラはユダヤ・カバラをキリスト教に応用するために考案されたものです。

後に近代西洋魔術の論理的根拠として利用されるようになります。

主に生命の樹(セフィロト)を中心として理論が成り立っています。

カバラによると世界の創造は神エイン・ソフからの聖性の流出過程とされます。

聖性は10段階にわたって流出し、最終的に物質世界が形成されることになります。

流出過程は10個の球と22本の小径で構成される生命の樹によって示されます。

生命の樹の各部分には神の属性が反映されています。

ユダヤ教は一神教ですがカバラには多神教や汎神論に近い性質があります。

タロットとカバラはエリファス・レヴィによって結びつけられました。

両者が共通しているのはタロットの大アルカナが22枚あり、ヘブライ語のアルファベットも22文字あるという点のみです。

カバラには形成の書と呼ばれる文献が存在し、10のセフィラと22の小径の占星術配属が記載されています。

形成の書から影響を受けたエリファス・レヴィがタロットに占星術配属を応用し、タロット魔術が生まれました。

フランスとタロットカード

1392年にシャルル6世のタロットが制作されてから、90年が経過した1482年頃にはフランスの文献などの中にタロットを含むプレイングカードに関する記述が見られるようになります。

タロットカードに関する文献としてフランスで最も古いものは、1534年に出版されたフランソワ・ラブレーの著書「ガルガンチュワとパンタグリュエル」です。

この本の中の第一之書には「tarau」という記述が見られます。

フランソワ・ラブレーはフランスのルネサンス期を代表する人文主義者で、作家や医師でもあります。

古代ギリシャの医者であるヒポクラテスの医書を研究したことで有名となりました。

中世の巨人伝説を題材にした騎士物語のパロディである「ガルガンチュワ物語」と「ガルガンチュワとパンタグリュエル」を書いています。

これらの物語はパリ大学や教会などの権威を風刺していたため禁書とされました。

パリ大学は1257年にフランスの神学者 ロベール・ド・ソルボンが神学部学生用のソルボンヌ寮を設立して以来、ソルボンヌもしくはラ・ソルボンヌとも呼ばれます。

12世紀前半に起源があり、1970年に第1から第13までの独立した大学群に編成されています。

ただし必ずしもソルボンの思想に基づいた教育が行われているわけではありません。

例えば第5大学の別名は「ルネ・デカルト大学」です。

現在存在する13校のうち第1から第4大学までがソルボンの意思を受け継ぐ教育を行っています。

第1大学の別名は「パンテオン・ソルボンヌ大学」で第3大学は「ソルボンヌ・ヌーベル大学」、第4大学は「ソルボンヌ大学」です。

基本的にソルボンヌ大学と言う場合は第4大学を指します。

16世紀後半にはリヨンやルーアンなどでもタロットが製造されるようになります。

17世紀にはマルセイユだけでなくトゥーロンやボルドーなど地中海沿岸地域やフランス各地でカードが製造されるようになりました。

当時の地中海沿岸は港町として栄えており、最新の技術や情報が各地から集まる地域です。

アジアやアフリカなどの文化を素早く吸収できたので、木版・銅板印刷の技術もハイレベルでした。

・ケイトリン・ジョフロイ版について

ケイトリン・ジョフロイ版タロットはフランスで現存する最古のタロットカードとされています。

1557年にリヨンでケイトリン・ジョフロイによって制作されました。

このタロットのスートは現代のものとは大きく異なります。

当時のトランプのスートと共通する3種類が存在し、マルセイユ版との共通点はあまりありません。

・ジャン・ノブレ版について

マルセイユ版タロットと同じ絵柄を確認できる最も古いものは、1650年頃のパリで制作されたジャン・ノブレ版です。

ジャン・ノブレ版のデザインが一般化して、様々なバリエーションのタロットカードがフランス各地で生産されるようになりました。

一般的にマルセイユ版と呼ばれるようになるのは20世紀に入ってからです。

グリモー社がニコラ・コンヴェル版を「マルセイユのタロット」という名称で1930年代に復刻したことをきっかけとして、広くマルセイユ版と呼ばれるようになります。

マルセイユ版タロットとは

マルセイユ版タロットカードは16世紀から18世紀にかけてヨーロッパで大量生産されていました。

当時カードの一大生産地であったマルセイユの名が付けられています。

一般的にはグリモー版のことをマルセイユ版と呼ぶケースが多く見られます。

同時期のタロットカードには1557年にリヨンで作られたケイトリン・ジョフロイ版も存在します。

しかし大アルカナの図柄にマルセイユ版とは大きな違いがあるため、マルセイユ版の元祖ではありません。

現在使用されているマルセイユ版と同様の図柄は1650年頃のパリで作られていたジャン・ノブレ版が最初です。

ジャン・ノブレ版はマルセイユ版の元祖とされています。

イギリスの哲学者であるマイケル・ダメットによると、18世紀前半に占いの方法を記載した手書きの書類が最古のタロット占いの記録です。

この記録によると各カードには意味が割り振られていました。

また当時は主にゲーム用として使用されていたようです。

マルセイユ版はライダー(ウェイト・スミス)版と並んで広く普及しています。

ウェイト版とは大アルカナの配列順序に違いがあります。

マルセイユ版の8は正義で11は力です。

一方でウェイト版の8は力で11は正義となっています。

・様々なマルセイユ版タロット

Ancien Tarot de Marseille

Ancien Tarot de Marseilleはグリモー版とも呼ばれています。

バプティスト・ポール・グリモーが1848年に設立したフランス・カルタ社が、1930年代に制作したタロットカードです。

グリモー版はニコラ・コンヴェル版のデザインを現代風にアレンジしています。

名称はバプティスト・ポール・グリモーに由来しており、一般的にマルセイユ版とも呼ばれます。

Universal Tarot of Marseille

Universal Tarot of MarseilleはイタリアのLO SCARABEO社が制作したタロットカードです。

クラウド・バーデルのデザインを現代風にアレンジされてUniversal Tarot of Marseilleとして復刻されました。

クラウド・バーテル版とも呼ばれています。

Tarot Classic

Tarot Classicは1751年にクラウド・バーデルによって制作された木版タロットカードを復刻したものです。

スイスのAGM社やイタリアのLO SCARABEO社によって復刻されています。

Tarot Vieville

Tarot Vievilleは1651年ころのパリでジャック・ヴィエヴィルによって制作された木版タロットカードを復刻したものです。

ジャック・ヴィエヴィル版とも呼ばれています。

マルセイユ版の元祖とされるジャン・ノブレ版と同時期に制作されました。

Ancient Tarots of Marseilles

Ancient Tarots of Marseillesはニコラ・コンヴェル版とも呼ばれています。

15世紀のマルセイユ版タロットに基づいて1760年にニコラ・コンヴェルが木版タロットカードを制作し、翌年に出版しました。

世界的なカードメーカーであるフランス・カルタ社の子会社であるヘロン社が復刻版を制作しています。

ニコラ・コンヴェルは1760年にマルセイユでタロットカードの印刷所を設立しました。

印刷所はジャン・バティスタ・カモワンがコンヴェル家の娘と結婚したためカモワン家に引き継がれています。

ニコラ・コンヴェル版の版木はカモワン社が所有しており、カモワン社は後にカモワン・タロットを制作しました。

ジャン・ドーダル版

ジャン・ドーダル版は1701年頃にリヨンで制作された、マルセイユ版タロットの一種で大アルカナ22枚と小アルカナ56枚で構成されています。

・マルセイユ版タロットの断絶

ニコラ・コンヴェルがマルセイユで自ら制作した版木を使用してタロットカードの印刷を始めたのが1760年です。

当時のマルセイユはカードの一大生産地でした。

ニコラ・コンヴェル版の版木には梨の木が使用されており、ステンシルを使って緑や水色を含む様々な色で彩色されているという特徴があります。

ステンシルとは型染めのことです。

型紙の模様を切り抜いた部分に染料や絵の具を刷り込む染色や版画の技法を指します。

初歩的な技法ですがデザインや版画、フランスなどにおける美術印刷では今でもステンシルが採用されています。

現代では謄写版用の原紙や捺染印刷用の型紙をステンシルと呼びます。

ニコラ・コンヴェル版は1860年頃まで同じ版木と色彩で印刷され続けました。

1861年にカモワン家のジャン・バティスタ・カモワンが、ニコラ・コンヴェルの子孫である女性と結婚してカード・メーカーであるコンヴェル家を継承します。

ジャン・バティスタ・カモワンがコンヴェル家を継承した当時、マルセイユにおけるカード・メーカーは2件のみとなっており、1878年にはカモワン家のみとなります。

ニコラ・コンヴェルが制作した版木は1世紀以上使い続けたために摩耗し、最初のような仕上がりにはならなくなっていました。

そこでカモワン家は4色印刷機械を導入します。

1880年に新しいタロットカードが製造されたとき色彩は4色に制限されており、赤と青、黄色と黒の他にわずか緑色のみ使うことができました。

他のメーカーもカモワン家の新しい印刷方法を模倣するようになったため、伝統的なマルセイユ版タロットが断絶してしまいます。

・カモワン・タロットとは

カモワン・タロットはフィリップ・カモワンとアレハンドロ・ホドロフスキーによって制作されました。

正式名称はカモワン・ホドロフスキー版マルセイユ・タロットです。

フィリップ・カモワンがマルセイユ版タロットを本来の形に復元するため、アレハンドロ・ホドロフスキーの協力により1997年に完成させました。

フィリップ・カモワンはニコラ・コンヴェルの子孫でマルセイユ・タロットのカード・メーカーとして現存するカモワン家の唯一の後継者です。

14歳の頃から象徴体系や錬金術、西洋秘教やチベット仏教、ヒンドゥ教などの知識を深めてきました。

数学や医学、コンピュータサイエンスの他に12か国語も学んでいます。

アレハンドロ・ホドロフスキーはチリ出身の映画監督です。

演出家や詩人、作家や俳優の他にバンド・デシネ作家など様々な顔を持っています。

さらにタロット占いの専門家でもあります。

フィリップ・カモワンとアレハンドロ・ホドロフスキーは所有している版木やニコラ・コンヴェル版、ドーダル版などの様々なマルセイユ版タロットを比較検討しました。

数年間をかけて版木の劣化で消失したシンボルや本来あったと考えられるシンボルを復元しています。

版木の劣化によって消失したシンボルは皇帝のカードに描かれていたワシの足元にある卵です。

また2人は本来であれば女法王のカードの法衣に3つ目の十字架が描かれていたと考えました。

フィリップ・カモワンは現在、自身のタロット・スクールでカモワン・タロットの使用方法を教授しています。

講義の内容にはカモワン・コードやカモワンの法則など独自のタロット解釈が含まれます。

カモワン・タロットではマルセイユ版タロットの秘密の教えに関するコードとシンボルが見直されています。

これはアレハンドロ・ホドロフスキーの勧めによるものです。

アレハンドロ・ホドロフスキーは著書「タロットの宇宙」の中で、カモワン・タロットを使用した大アルカナと小アルカナの解釈や合計21になるペアの解釈、独自の3次元タロット・マンダラなどについて説明しています。

ヴィスコンティ・スフォルツァ版の現存するコレクションについて

ヴィスコンティ・スフォルツァ版のタロットカードは世界中の博物館や図書館、コレクターによって分散して所有されています。

特にキャリー・イェール版とブレラ・ブランビラ版、ピアポント・モルガン・ベルガモ版は三大コレクションと呼ばれます。

・キャリー・イェール版とは

1967年にイェール大学の図書館に寄贈されたキャリー家のカードゲーム・コレクションの中にあったデッキはキャリー・イェール版と呼ばれています。

このコレクションはヴィスコンティ・ディ・モドローネ版としても知られており1466年に遡るとされます。

フィリッポ・マリア・ヴィスコンティの注文によるセットではないかとする学説によると、このデッキが世界最古である可能性が存在します。

ジョルダーノ・ベルティという学者は、このデッキが1442年から1447年の間に製作されたという学説を主張しています。

キャリー・イェール版には一般的な大アルカナだけでなく信仰や希望、慈善のカードが存在します。

これらのカードは教皇と星、女教皇の代わりに加えられたとする説もあります。

一般的なタロットカードの人物札は王と女王、騎士とペイジです。

ペイジとは西洋における小姓を意味します。

中世ヨーロッパでは騎士の城や屋敷に7歳から10代半ばまでの少年が小姓として仕えていました。

キャリー・イェール版には王などの他にも女騎士やメイドが加えられています。

現存するのは11枚の大アルカナと17枚の人物札、金貨の3を除く数札39枚の合計67枚です。

制作当時は86枚で構成されていたと考えられています。

カードのサイズは縦が189mmで横が90mmです。

大アルカナと人物札の背景は金箔で装飾されており、数札の背景は銀で装飾されています。

イェール大学にはキャリー・イェール版の他にも1450年頃のデッキが所蔵されています。

このデッキは剣が王・女王・騎士、棒が王・騎士・ペイジ、金貨は王のみ、カップは女王のみ、その他に魔術師と教皇、節制、星、月、太陽、世界、愚者の合計16枚が現存します。

これらはヴィスコンティ・スフォルツァ版ではなくエステ家のタロットです。

・ブレラ・ブランビラ版

ブレラ・ブランビラ版の名称は1909年にイタリアのヴェネツィアでデッキを取得したジョヴァンニ・ブランビラに由来します。

1971年にはミラノにあるブレラ美術館の目録に記載されていました。

ブレラ・ブランビラ版は1463年にフランチェスコ・スフォルツァ の注文を受けてボニファチオ・ベンボが図柄を描きました。

現在は48枚が現存しています。

現存するカードのうち大アルカナは皇帝と運命の輪の2枚のみです。

カードのサイズは縦が180mmで横が90mmとなっています。

大アルカナと人物札は全て背景が金箔で装飾されました。

数札は全て背景が銀で装飾されています。

現存しているのは金貨の4以外の全ての数札に加えて杯の騎士とペイジ、棒の女王と騎士、ペイジです。

・ブレラ美術館について

ブレラ美術館はイタリアのミラノにありブレラ絵画館と呼ばれることもあります。

15世紀から18世紀のヴェネツィア派、ロンバルディア派などイタリア絵画の名作が数多く収蔵されています。

もともとは17世紀に建てられたイエズス会の施設でしたが、1772年にロンバルディア王を兼任していたマリア・テレジアが取得しました。

さらに1776年には美術アカデミーが設置され絵画の収集が行われるようになります。

後にナポレオンによって美術館として整備されました。

1809年にナポレオンの誕生日を記念して開館し、一般公開されるようになります。1882年には国立美術館になっています。

ブレラ美術館にあるブレラ宮には1764年に開設されたブレラ天文台があります。

ブレラ天文台では19世紀末から20世紀初頭のおよそ40年にわたってジョヴァンニ・スキアパレッリが天文台長を務めていました。

ジョヴァンニ・スキアパレッリは火星の運河を発見したことで知られています。

天文台では現在、天体望遠鏡などの歴史的資料が一般公開中です。さらに天文台の横には1774年に開設されたブレラ植物園も存在します。

・ピアポント・モルガン・ベルガモ版

ピアポント・モルガン・ベルガモ版にはコッレオーニ・バリオーニ版やフランチェスコ・スフォルツァ版という別名があります。

ピアポント・モルガン・ベルガモ版のデッキは1451年頃に制作されました。

最初は78枚で構成されていたと考えられますが現在は20枚の大アルカナと15枚の人物札、39枚の数札を合わせて74枚が残っています。

現存するデッキのうち35枚はモルガン・ライブラリーの所蔵です。

また26枚をアッカデミア・カッラーラ美術館が、13枚はベルガモ地方のコッレオーニ家が個人所蔵しています。

ピアポント・モルガン・ベルガモ版は大アルカナの悪魔と塔のカードが現存していません。

大アルカナと人物札は背景に金箔が使われています。

数札の背景はクリーム色で花と蔓のモチーフによる装飾が見られます。全てのカードには青い縁取り装飾が存在します。

カードのサイズは縦が173mmで横が87mmです。

・モルガン・ライブラリーとは

モルガン・ライブラリーはニューヨーク市マンハッタン区マーリー・ヒルにある美術館と学術機関です。

実業家でアメリカ五代財閥の1つであるモルガン財閥を創設したジョン・モルガンの書物と絵画のコレクションを集めた図書館として1906年に開設されました。

1924年には息子のJ.P.モルガン Jr.が公共法人化し、美術館として一般公開しています。

建物は120万ドルでチャールズ・マッキムによって設計されたものです。

1966年にニューヨーク市指定歴史建造物に指定され、さらにアメリカ合衆国国定歴史建造物に認定されています。

展示品は書物や著名人の自筆書類が多く見られます。

ウォルター・スコットやバルザック、ディケンズやシャーロット・ブロンテなどの草稿の他にベートーヴェンやモーツァルトの楽譜などが展示されています。

・アッカデミア・カッラーラ美術館とは

アッカデミア・カッラーラ美術館はイタリアのベルガモ地方にある美術館・美術学校です。

18世紀の終わりに芸術活動のパトロンで美術品収集家でもあったジャコモ・カッラーラ伯爵のコレクションがベルガモ市への遺産とされました。

伯爵は1796年に死去し美術品と美術館は代理人によって管理されていましたが、1958年以降はベルガモのコムーネが直接監督しています。

コムーネとはイタリア語で「共同体」という意味です。現代ではイタリアの基礎自治体を指します。

イタリアの自治体には日本における市町村のような人口規模による区別はありません。

人口が100万人を超える大都市も1000人以下の村も全てコムーネです。

日本語に翻訳する際には日本の自治体規模に対応させて市町村で表現します。

アッカデミア・カッラーラ美術館の新古典主義の建物は建築家レオポルド・ポラックの弟子であるシモーネ・エリアが設計し、1810年に竣工しました。

アルトベロ・メローネが描いたチェーザレ・ボルジアの肖像画もこの美術館が収蔵しています。