スピリトゥアル派への迫害

・スピリトゥアル派に対する迫害

スピリトゥアル派はフランシスコ会が教皇特権に依存し、聖フランチェスコの清貧の理想から離れることに反対します。

1280年代になるとコンヴェントゥアル派とスピリトゥアル派の対立が先鋭化しました。

コンヴェントゥアル派によるスピリトゥアル派への迫害とスピリトゥアル派の分派活動が強まります。

スピリトゥアル派が多く存在したのは北イタリアと南フランスですが、聖フランチェスコが活動したアッシジはイタリア中部です。

イタリアのスピリトゥアル派は早くから迫害を受けており、フランシスコ会から分離して流浪の存在となります。

最終的には彼らに共感するアラゴン王家のフェデリーコ2世が統治するシチリア王国へ逃走し、清貧論争の表舞台から姿を消しました。

シチリアへ逃走した一派はフラティチェッリと呼ばれます。

ペトルス・ヨハンニス・オリーヴィはスピリトゥアル派の理論家で厳格な清貧を訴えました。

彼はスピリトゥアル派の修道士だけでなく在俗の信徒からも広く支持されます。

そのため南フランスのランドックでは1280年代になると迷信的なセクトの頭目として批難され、著書は禁書となります。

さらにスピリトゥアル派の修道士たちも追放・監禁されるなどの迫害を受けました。

スピリトゥアル派の指導者の1人であるカザーレのウベルティーノによれば、14世紀初めの10年間で300名を越える会士が迫害を受けたとされます。

・クレメンス5世による保護

教皇ボニファティウス8世は教皇至上主義の考えを持っており、フランス国王フィリップ4世と対立します。

フィリップ4世はボニファティウス8世に異端と売官、奢侈的生活があり教皇の資格に欠けると批判し、教皇はフィリップ4世を破門しました。

フランスの宰相ギヨーム・ド・ノガレはローマ教皇庁から追放されたコロンナ家と共謀してイタリアに軍を派遣します。

1303年にボニファティウス8世は生まれ故郷の山間の小都市アナーニに逃げこみますが一時フランス軍に捕らえられます。

教皇はアナーニ住民の抵抗で救出されるものの怒りと失望で傷心し、3週間後に死亡しました。この一連の事件がアナーニ事件です。

フィリップ4世はテンプル騎士団の解散と財産没収、ユダヤ人の追放と財産没収、貨幣鋳造によって財政基盤を強化しローマ教会に圧力をかけます。

クレメンス5世をアヴィニョンに移住させ(アヴィニョン捕囚、教皇のバビロン捕囚)、教皇権に対する王権の優位を確立しました。

フィリップ4世により教皇権の衰退が明らかになる一方で、王権の伸張が近世絶対王制に繋がっていくことになります。

フランス出身の教皇クレメンス5世はラングドックのスピリトゥアル派に対して好意的でした。

1309年にはスピリトゥアル派支持者の要請で教皇庁内にフランシスコ会の問題を調査する委員会が設置され、コンヴェントゥアル派とスピリトゥアル派の代表がアヴィニョンに招かれます。

クレメンス5世が好意的だったため、スピリトゥアル派の修道士は他の会員たちとは異なった生活を続けることができました。

一方でコンヴェントゥアル派とスピリトゥアル派の対立は、教会法と聖フランチェスコのカリスマのいずれの権威が上かという論争をもたらします。

 キリスト教におけるカリスマとは神からの恩寵、賜物を意味します。

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