教皇ヨハネス22世によるスピリトゥアル派の弾圧

ヨハネス22世
1316年にヨハネス22世がアヴィニョン教皇庁の新教皇になると、翌年にはフランシスコ会の清貧論争に決着をつけます。

南フランスにあるオード県ナルボンヌとエロー県ベジエのスピリトゥアル派修道士に対して、清貧の象徴であった短い僧衣を捨ててフランシスコ会総長への服従を命じました。

ナルボンヌとベジエのスピリトゥアル派修道士61名を呼び出し、査問を拒否する場合は破門すると伝えます。

実際には査問は名ばかりで、スピリトゥアル派の修道士たちは連行され投獄されました。

投獄された修道士たちのうち多くは教皇とフランシスコ会総長に従いますが、20名が抵抗しました。

13名の神学者に諮問したところ、服従を拒む場合は異端として断罪されるべきとされます。

最終的に5名が不服従を貫いたため異端とされ1名が終身刑となり残りは世俗の裁判にかけられました。

教会の異端尋問では死刑を科すことができません。

死刑に処する場合は世俗の裁判にかける必要がありました。

不服従を貫いた4名は世俗の裁判の結果、1318年5月7日にマルセイユにおいて火刑となっています。

1328年までの10年間で、マルセイユやモンペリエ、トゥルーズなどのスピリトゥアル派の人々とペガンと呼ばれる在俗信徒が異端狩りの対象になります。

フランシスコ会は1322年にキリストと12使徒が私有財産を保有しなかったのは正当な神学的見解であることを公式に表明しました。

スピリトゥアル派に近い見解だったためヨハネス2世は異端と批難され、フランシスコ会は再び分裂することになります。

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