レノン=マッカートニー

 ・ビートルズメンバーの共作関係


ビートルズのオリジナル曲は全てメンバーが作詞・作曲を行っていますが、ジョン・レノンとポール・マッカートニーの共作名義であるレノン=マッカートニーが最も多く見られます。

オリジナルのビートルズナンバーは全部で213曲あり、半数以上の144曲がレノン=マッカートニー名義です。

その他の公式発表曲には名前の並び順が逆になっているマッカートニー=レノン名義の作品が8曲と、ジョン・レノン・アンド・ポール・マッカートニー名義の曲が13曲あります。

またレノン=マッカートニーとリンゴ・スターの共作が曲の他に、全員で共作した2曲が存在します。

ジョージ・ハリスンの作品は22曲、リンゴの作品は2曲あります。

未発表曲集の「ザ・ビートルズ・アンソロジー」にはジョージが、ジョン、ポールとそれぞれ共作した作品が収録されています。

「ザ・ビートルズ・アンソロジー」はビートルズの解散後に制作されたアルバムとドキュメンタリービデオ、ドキュメンタリーブックの3部構成の総称です。

これらの制作プロジェクトは総括してアンソロジー・プロジェクトと呼ばれており、作品はアンソロジー3部作と呼ばれます。

・レノン=マッカートニー

レノン=マッカートニー名義の作品には、アメリカのビルボードとイギリスのミュージック・ウィークの双方で1位を記録したものが多く見られます。

ギネス・ワールド・レコーズでは最も成功したシンガー・ソングライターとして記載されています。

ジョンとポールの担当割合に関する公式な記録はありません。

書籍「ザ・ビートルズ・アンソロジー」は2000年10月5日に13カ国版が世界同時発売された、アンソロジー・プロジェクトの書籍版です。

日本語版の監修・翻訳はザ・ビートルズ・クラブ(BCC)が担当しました。

唯一の公式自伝と呼べる作品となっており、各年代のメンバーの発言を中心として未発表写真などを加えた編集が行われています。

ビートルズが無名だった時代から絶頂期を経て解散に至るまでの経緯がメンバーの言葉で語られているのが特徴です。

書籍版の「ザ・ビートルズ・アンソロジー」のおけるポールのコメントによると、「プリーズ・プリーズ・ミー」はジョン、「P.S.アイ・ラヴ・ユー」はポールがメインで、「フロム・ミー・トゥ・ユー」は半々の担当割合でした。

様々なパターンが存在しますが、基本的にその曲をメインで作った方がリード・ボーカルを取っているケースが多いそうです。

また共同クレジットで発表することは早い段階で決まっていました。

レノン=マッカートニーという序列は話し合いで決定されたものです。

「ザ・ビートルズ・アンソロジー」の第1アルバムではプリーズ・プリーズ・ミーでのみマッカートニー=レノンという表記になっています。

イエスタデイのようにポールが主に作詞・作曲を担当した曲はマッカートニー=レノン名義にすることが検討されましたが、実行されてはいません。

デビューシングルの「ラヴ・ミー・ドゥ / P.S.アイ・ラヴ・ユー」はレノン=マットカートニー名義でしたが、2枚目の「プリーズ・プリーズ・ミー / アスク・ミー・ホワイ」と3枚目のシングル「フロム・ミー・トゥ・ユー / サンキュー・ガール」、アルバム「プリーズ・プリーズ・ミー」はマッカートニー=レノン名義です。

アルバム「ハード・デイズ・ナイト」は「JOHN LENNON AND PAUL McCARTNEY」という表記になっています。

他にも「Lennon, McCartney」や「John Lennon - Paul McCartney」、「John Lennon & Paul McCartney」、「J. Lennon - P. McCartney」などの表記が存在します。

ビートルズを結成した当初からジョンとポールのいずれかが単独で作った曲もレノン=マッカートニーかマッカートニー=レノンの名義にするという約束が存在します。

1980年の「ジョン・レノンPlayboyインタビュー」によるとジョンとポールは15才の頃に協力して曲を書こうと決めたときに、どのようなものでも2人の名義で出そうと取り決めをしました。

デビュー前にジョンとポールが作曲した作品には「One After 909」や「I'll be on my way」などがあります。

この約束は法的なものではなく後のトラブルの原因となっています。

1969年にジョンがプラスティック・オノ・バンド名義で発表した「Give Peace a Chance(邦題は「平和を我等に」)」も、かつてはレノン=マッカートニー名義でした。

「Give Peace a Chance(邦題は「平和を我等に」)」はジョンとヨーコの共作で、ビートルズ関連の作品でレノン=マッカートニー名義になっていた唯一の例外です。

生前のジョンにはビートルズを離れることに後ろめたさのようなものがあり、この曲をレノン=マッカートニー名義にしたと「ジョン・レノンPlayboyインタビュー」で述べています。

「Give Peace a Chance(邦題は「平和を我等に」)」は1997年以降ジョン・レノンの単独表記に変更されました。

当初は作詞・作曲を担当した割合が多い方の名前が先になるようにしていましたが、徹底されてはおらず、1963年にはアルファベットでLがMの前に来ることや口に出したときの語感のよさ、年齢などの理由でジョンの名前が先に入るようになります。

リード・ボーカルか主旋律を歌っている方が主に作詞・作曲を行っているケースが多く見られます。

ジョージ・ハリスンがリード・ボーカルの場合(2曲)とリンゴ・スターがリード・ボーカルの場合(4曲)では、曲によっていずれが主に作曲したかは異なります。

リンゴ・スターがリード・ボーカルを務めた「What Goes On」はLennon-McCartney-Starkey名義で発表されました。

実際に2人で共作した作品は20数曲程度という説もありましたが、ジョンはインタビューで否定しています。

ポールも自伝の「MANY YEARS FROM NOW」で多くが共作であると述べているものの、実際の担当割合は曲によって異なります。

ほぼ半分ずつ担当した曲もあれば片方がメインで作詞・作曲を行い、もう片方が手伝った程度のものも存在します。

1963年に発売された4枚のシングルの中では「プリーズ・プリーズ・ミー」をジョンが作曲しましたが、「フロム・ミー・トゥ・ユー」と「シー・ラヴズ・ユー」、「抱きしめたい」は完全な共作です。

「ミッシェル」はポールが作曲し、ジョンからサビ部分をコーラスにしたらどうかという助言を得て完成しました。

2002年に発売されたポールのライブアルバム「バック・イン・ザ・U.S. -ライブ2002」のライナー・ノーツで、収録されているレノン=マッカートニー名義の作品を「Paul McCartney and John Lennon」名義にしたところ、オノ・ヨーコが訴訟を検討中と報道されています。

ただしポールがソロで歌合う場合には、ジョンが作詞・作曲に全く関与していない「イエスタデイ」などの曲で名義を逆にしてもよいという合意があったそうです。

・他のアーティストの提供されたレノン=マッカートニー名義の楽曲について

マネージャーのブライアン・エプスタインはザ・フォーモスト、アップルジャックスなど他のグループもプロデュースしていました。

これらのグループやブライアンの死後にアップル・コアからデビューしたアップル・コアからデビューしたピーター&ゴードン、メリー・ホプキンなどにジョンとポールが曲を提供した場合にも、レノン=マッカートニー名義になっています。

他のアーティストに提供された楽曲は1979年にEMIから発売されたコンピレーション・アルバムの「The Songs Lennon and McCartney Gave Away」に収録されました。

このアルバムの一部の曲はビートルズとしても演奏・録音が行われており、「ザ・ビートルズ・ライヴ!! アット・ザ・BBC」や「ザ・ビートルズ・アンソロジー」に収録されています。

デビュー前にデッカ社のオーディションでは「ハロー・リトル・ガール」と「夢のように("Like Dreamers Do")」、「ラヴ・オブ・ザラヴド」の3曲が録音されました。

後に「ハロー・リトル・ガール」はザ・フォーモストに、「夢のように("Like Dreamers Do")」はジ・アップルジャックスに、「ラヴ・オブ・ザラヴド」はシラ・ブラックにそれぞれ提供されています。

ローリング・ストーンズにはミック・ジャガーとキース・リチャーズが作詞・作曲を共同で行った曲がジャガー/リチャーズ名義とされていますが、きっかけはローリング・ストーンズがレノン=マッカートニー作の「アイ・ウォナ・ビー・ユア・マン」の提供を受けたことにあります。

ジャガー/リチャーズの場合はミックが作詞、キースが作曲を担当しているケースが多いのが特徴です。

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