ウィリアム・ジョセフ・シーモアとアズサ・ストリート・リバイバルについて

ウィリアム・ジョセフ・シーモア
ウィリアム・ジョセフ・シーモア(1870年5月2日~1922年9月28日)はアメリカ合衆国における最初期のペンテコステ派指導者です。

ルイジアナ州で黒人奴隷の両親から生まれ正式な教育は受けませんでしたがメソジスト監督協会に通います。

メソジスト監督教会はアメリカの独立戦争時にメソジスト教徒がイングランド国教会との関係を絶たれたのでジョン・ウェスレーによって作られました。

ウィリアム・ジョセフ・シーモアはチャールズ・パーハムがテキサス州ヒューストンに開校した聖書学校への入学を希望します。

しかしアメリカ南部の法律で黒人が学校の中に入ることができなかったので窓の外で授業を聞きました。

パーハムはカンザス州のトピーカにある聖書学校で1900年末から新年にかけて祈祷会を行いました。

使徒時代のように祈るとパーハムや多くの生徒たちが異言を語り聖霊のバプテスマを経験したそうです。

1905年にパーハムは聖書学校をヒューストンに移します。

パーハムから訓練を受けたウィリアム・ジョセフ・シーモアは、1906年にロサンゼルスにあるホーリネス教会に牧師として赴任し異言を語らない者は聖霊のバプテスマを受けているとは言えないと主張します。

この主張は異言が聖霊による火のバプテスマであるというパーハムの考えを受け継いだものです。

シーモアが聖霊のバプテスマの体験を語ると教会での奉仕を拒否されますが、信徒宅で集会を行います。

集会において信徒が異言を語ったのでアズサ通りの使われていないメソジスト教会で3年間集会を続けます。

信徒が異言を語った事件はロサンゼルスの新聞に掲載されるとアメリカ中に広まり、ペンテコステ運動が始まりました。

この運動はアメリカだけでなくヨーロッパにも広がることになります。

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