ウィリアム・ジョセフ・シーモアとアズサ・ストリート・リバイバルについて

ウィリアム・ジョセフ・シーモア
ウィリアム・ジョセフ・シーモア(1870年5月2日~1922年9月28日)はアメリカ合衆国における最初期のペンテコステ派指導者です。

ルイジアナ州で黒人奴隷の両親から生まれ正式な教育は受けませんでしたがメソジスト監督協会に通います。

メソジスト監督教会はアメリカの独立戦争時にメソジスト教徒がイングランド国教会との関係を絶たれたのでジョン・ウェスレーによって作られました。

ウィリアム・ジョセフ・シーモアはチャールズ・パーハムがテキサス州ヒューストンに開校した聖書学校への入学を希望します。

しかしアメリカ南部の法律で黒人が学校の中に入ることができなかったので窓の外で授業を聞きました。

パーハムはカンザス州のトピーカにある聖書学校で1900年末から新年にかけて祈祷会を行いました。

使徒時代のように祈るとパーハムや多くの生徒たちが異言を語り聖霊のバプテスマを経験したそうです。

1905年にパーハムは聖書学校をヒューストンに移します。

パーハムから訓練を受けたウィリアム・ジョセフ・シーモアは、1906年にロサンゼルスにあるホーリネス教会に牧師として赴任し異言を語らない者は聖霊のバプテスマを受けているとは言えないと主張します。

この主張は異言が聖霊による火のバプテスマであるというパーハムの考えを受け継いだものです。

シーモアが聖霊のバプテスマの体験を語ると教会での奉仕を拒否されますが、信徒宅で集会を行います。

集会において信徒が異言を語ったのでアズサ通りの使われていないメソジスト教会で3年間集会を続けます。

信徒が異言を語った事件はロサンゼルスの新聞に掲載されるとアメリカ中に広まり、ペンテコステ運動が始まりました。

この運動はアメリカだけでなくヨーロッパにも広がることになります。

プロテスタントの聖霊派とは

・聖霊派とは

キリスト教の世界は大きく西のカトリックやプロテスタントと東の正教会に分けることができます。

西方教会はかつてカトリックとプロテスタントで対立していましたが、現在はエキュメニカル派(リベラル派)と福音派(聖書信仰派)に分かれています。

大雑把な分類ではカトリックはエキュメニカル派で、プロテスタントにはそれぞれの教派にエキュメニカル派と福音派が存在します。

エキュメニカル派は聖書を字義通りに考えません。

一方で福音派は科学的にも歴史的にも文字通り正しいと考えています。

日本ではエキュメニカル派のカトリックとプロテスタントが協力して共同訳や新共同訳、聖書共同訳などの聖書が発行されました。

一方エキュメニカル派の聖書に反対する福音派は新改訳を発行しています。

プロテスタントの聖霊派は福音派の一種です。

福音派には聖書に記載された奇跡などが既に完了しておりもう起こらないと考える立場と現在でも起こりうると考える立場が存在します。

前者がアンチ・カリスマで後者がノン・カリスマです。

後者は奇跡などを信じていますが特に強調しません。

聖霊派は奇跡などの聖霊の働きや賜物を現代でも起きると信じており強調します。

賜物とは初代教会において生じた異言や預言、病のいやしや死人が生き返ること、悪霊追い出しなどです。

初代教会はキリスト昇天後の使徒たちが活動していた時代の教会を指します。

現代における聖霊派はペンテコステ派とカリスマ派に分類されます。

最初の発生したのはペンテコステ派です。

チャールズ・パーハム
1901年1月1日にホーリネス派の牧師であるチャールズ・パーハム(1873年~1929年)が女学生のアグネス・オズマンに按手をしたところ、その場にいた者たちが異言を語りだしたとされます。

パーハムは聖霊のバプテスマを受けることが大患難時代を逃れる唯一の方法であり、異言が聖霊のバプテスマを受けた唯一の証拠であるとしました。

大患難時代とは新約聖書のマタイ福音書24章21節で「大きな苦難が来る」と言われているもののことです。

キリスト教の終末論にはこの大患難が既に起こったとする説や現在も続いているとする説、未来に起きるという説などがあります。

そのときには、世界の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難が来るからである。(マタイ24:21)

聖霊のバプテスマは新約聖書でイエスが授けるとされた聖霊による洗礼のことです。

わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。(ルカ24:49)

ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。(使徒1:3)

あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。(使徒1:8)

・ホーリネス派とは

ジョン・ウェスレー
ジョン・ウェスレー(1703年6月28日~1791年3月2日)はイギリス国教会の司祭でメソジスト運動と呼ばれる信仰覚醒運動を指導しました。

メソジスト運動からメソジスト派というプロテスタント教会が生まれアメリカやヨーロッパ、アジアで大きな勢力を持つようになります。

メソジスト教会の内部から信仰復興のためのホーリネス運動が起こりました。

この運動の結果生まれた教団がホーリネス派です。

14世紀後半から現代までのフランシスコ会

・教会大分裂とフランシスコ会の腐敗

1378年から1417年までローマとアヴィニョンに教皇が擁立されカトリック教会が分裂した時代を「教会大分裂」と呼びます。

この時期にはフランシスコ会もローマ派とアヴィニョン派に分かれてそれぞれの教皇を支持しました。

1409年にピサで公会議派の教皇アレクサンデル5世が選出されると、ローマ派だった総長のアントニオ・ヴィニティがピサ派に同調します。

ローマでは別の総長が選出されたため、フランシスコ会は3つに分裂することになります。

分立した教皇たちはフランシスコ会を引き込むため様々な恩典を与えました。

これによりフランシスコ会が分裂しただけでなく腐敗が進みます。

1471年にシクストゥス4世がローマ教皇に就任しました。

シクストゥス4世はフランシスコ会の出身ですが、教皇に選出された理由は学識の高さと有力者への賄賂です。

教皇に就任した後も縁故主義により6人の甥を枢機卿に任命するなど親族登用を行ったり、親類縁者に金銭や役職を与えます。

・フランシスコ会の改革運動

14世紀後半から15世紀にかけてフランシスコ会では腐敗に対する批判を受けて改革運動が起こります。

改革は「会則の遵守(レグラーリス・オブセルヴァンティア)」を標語として掲げました。

そのため改革派や会則派、オブセルヴァンティス派などと呼ばれ、かつてのスピリトゥアル派的主張を吸収します。

改革派は後に主流派となり16世紀になるとイタリアのリフォルマーティ派やフランスのレコレ派、スペインのアルカンタラン派などの改革運動が起こりました。

フランシスコ会の保守派は修道会派やコンヴェントゥアル(コンベンツァル)派などと呼ばれます。

「Convent」は「共住」や「修道院」を意味しており、都会の修道院やそこに住む会員を指しました。

1517年には教皇レオ10世によって保守派と改革派が分割されます。

保守派が「コンベンツァル聖フランシスコ修道会」、改革派が「オブセルヴァンティス小さき兄弟会」となりました。改革派がフランシスコ会の主流を占めるようになります。

1525年にはイタリアのモンテファルコーネ修道院で、改革派のマテオ・ダ・バッシがカプチン小さき兄弟会を発足させます。

カプチン会は1528年にローマ教皇クレメンス7世から認可を受けました。

フランシスコ会には改革派とカプチン会、保守派の3つの分派が成立します。

1538年には南イタリアのナポリでクララ会から女子カプチン会が分派して創立されました。

カプチン会は当初コンベンツァル聖フランシスコ修道会の庇護下にありましたが、1619年に認可されて独立の修道会となっています。

・現在のフランシスコ会

フランシスコ会は大きく第一会から第三会で構成されています。

第一会は狭義のフランシスコ会で男子修道会です。1209年頃にイタリア中部のアッシジで成立しました。1210年に

教皇インノケンティウス3世によって第一会則の認可を受けて創設承認が口約されます。

1221年には聖フランチェスコにより第二会則が制定され、その修正を経て1223年に教皇ホノリウス3世によって正式に認可されました。

第一会はさらに小さき兄弟会とコンベンツァル聖フランシスコ修道会(コンベンツァル会)、カプチン・フランシスコ修道会(カプチン会)に分かれます。

最狭義のフランシスコ会は改革派の小さき兄弟会を指します。

第二会は観想的な女子修道会でクララ会(キアラ会)とも呼ばれます。

アッシジのキアラ
聖フランチェスコにとって最初の女性の弟子であるアッシジのキアラが中心となって結成されました。

修道女たちの活動の中心となったのはアッシジ郊外のサン・ダミアノ修道院です。

第二会は1253年に教皇イノケンティウス4世から許可を受けました。

第三会は在世フランシスコ会とも呼ばれます。

世俗にありながら托鉢修道士や修道女と同じ理念に従い同じ誓願を立てたいと望む信徒のため1221年頃に創設され、1447年に教皇ニコラウス5世の許可を受けました。

第三会は律修会と修道女会、在世会で構成されています。

フランスシスコ会主流派による教皇批判

・フランシスコ会による反抗

スピリトゥアル派は厳しい弾圧を受ける一方でフランシスコ会の主流派だけでなく教会に対して反抗し、教皇制度を批判しました。

教会による異端尋問が強化され監禁や火刑、修道院の破壊などが行なわれます。

ヨハネス22世は教勅を発布してフランシスコ会の特権を剥奪し、清貧の主張は異端であると主張します。

フランシスコ会の主流派も教皇を異端と非難するようになります。

さらに1328年には総長などが教皇と対立していた神聖ローマ皇帝のルートヴィヒ4世のもとに逃げ、ヨハネス22世の廃位を要求しました。

・教皇対立ニコラウス5世の擁立

フランシスコ会主流派だけでなくスピリトゥアル派も皇帝ルートヴィヒ4世と連携します。

さらにフランシスコ会員のピエトロ・ライナルドゥッキを対立教皇ニコラウス5世としてローマで擁立しました。

ルートヴィヒ4世はアナーニ事件の首謀者のひとりでコロンナ家のシアッラ・コロンナからローマ市民を代表して帝冠を受け、ヨハネス22世の廃位を宣言します。

・スピリトゥアル派の終焉

1330年に対立教皇ニコラウス5世はヨハネス22世に降伏しました。

ヨハネス22世に反対していたフランシスコ会の人々は南イタリアのナポリ王国やシチリア王国に逃れてスピリトゥアル派の残党であるフラティチェッリと合流します。

1354年頃にスピリトゥアル派の反抗は終焉を迎えることになります。

教皇ヨハネス22世によるスピリトゥアル派の弾圧

ヨハネス22世
1316年にヨハネス22世がアヴィニョン教皇庁の新教皇になると、翌年にはフランシスコ会の清貧論争に決着をつけます。

南フランスにあるオード県ナルボンヌとエロー県ベジエのスピリトゥアル派修道士に対して、清貧の象徴であった短い僧衣を捨ててフランシスコ会総長への服従を命じました。

ナルボンヌとベジエのスピリトゥアル派修道士61名を呼び出し、査問を拒否する場合は破門すると伝えます。

実際には査問は名ばかりで、スピリトゥアル派の修道士たちは連行され投獄されました。

投獄された修道士たちのうち多くは教皇とフランシスコ会総長に従いますが、20名が抵抗しました。

13名の神学者に諮問したところ、服従を拒む場合は異端として断罪されるべきとされます。

最終的に5名が不服従を貫いたため異端とされ1名が終身刑となり残りは世俗の裁判にかけられました。

教会の異端尋問では死刑を科すことができません。

死刑に処する場合は世俗の裁判にかける必要がありました。

不服従を貫いた4名は世俗の裁判の結果、1318年5月7日にマルセイユにおいて火刑となっています。

1328年までの10年間で、マルセイユやモンペリエ、トゥルーズなどのスピリトゥアル派の人々とペガンと呼ばれる在俗信徒が異端狩りの対象になります。

フランシスコ会は1322年にキリストと12使徒が私有財産を保有しなかったのは正当な神学的見解であることを公式に表明しました。

スピリトゥアル派に近い見解だったためヨハネス2世は異端と批難され、フランシスコ会は再び分裂することになります。

スピリトゥアル派への迫害

・スピリトゥアル派に対する迫害

スピリトゥアル派はフランシスコ会が教皇特権に依存し、聖フランチェスコの清貧の理想から離れることに反対します。

1280年代になるとコンヴェントゥアル派とスピリトゥアル派の対立が先鋭化しました。

コンヴェントゥアル派によるスピリトゥアル派への迫害とスピリトゥアル派の分派活動が強まります。

スピリトゥアル派が多く存在したのは北イタリアと南フランスですが、聖フランチェスコが活動したアッシジはイタリア中部です。

イタリアのスピリトゥアル派は早くから迫害を受けており、フランシスコ会から分離して流浪の存在となります。

最終的には彼らに共感するアラゴン王家のフェデリーコ2世が統治するシチリア王国へ逃走し、清貧論争の表舞台から姿を消しました。

シチリアへ逃走した一派はフラティチェッリと呼ばれます。

ペトルス・ヨハンニス・オリーヴィはスピリトゥアル派の理論家で厳格な清貧を訴えました。

彼はスピリトゥアル派の修道士だけでなく在俗の信徒からも広く支持されます。

そのため南フランスのランドックでは1280年代になると迷信的なセクトの頭目として批難され、著書は禁書となります。

さらにスピリトゥアル派の修道士たちも追放・監禁されるなどの迫害を受けました。

スピリトゥアル派の指導者の1人であるカザーレのウベルティーノによれば、14世紀初めの10年間で300名を越える会士が迫害を受けたとされます。

・クレメンス5世による保護

教皇ボニファティウス8世は教皇至上主義の考えを持っており、フランス国王フィリップ4世と対立します。

フィリップ4世はボニファティウス8世に異端と売官、奢侈的生活があり教皇の資格に欠けると批判し、教皇はフィリップ4世を破門しました。

フランスの宰相ギヨーム・ド・ノガレはローマ教皇庁から追放されたコロンナ家と共謀してイタリアに軍を派遣します。

1303年にボニファティウス8世は生まれ故郷の山間の小都市アナーニに逃げこみますが一時フランス軍に捕らえられます。

教皇はアナーニ住民の抵抗で救出されるものの怒りと失望で傷心し、3週間後に死亡しました。この一連の事件がアナーニ事件です。

フィリップ4世はテンプル騎士団の解散と財産没収、ユダヤ人の追放と財産没収、貨幣鋳造によって財政基盤を強化しローマ教会に圧力をかけます。

クレメンス5世をアヴィニョンに移住させ(アヴィニョン捕囚、教皇のバビロン捕囚)、教皇権に対する王権の優位を確立しました。

フィリップ4世により教皇権の衰退が明らかになる一方で、王権の伸張が近世絶対王制に繋がっていくことになります。

フランス出身の教皇クレメンス5世はラングドックのスピリトゥアル派に対して好意的でした。

1309年にはスピリトゥアル派支持者の要請で教皇庁内にフランシスコ会の問題を調査する委員会が設置され、コンヴェントゥアル派とスピリトゥアル派の代表がアヴィニョンに招かれます。

クレメンス5世が好意的だったため、スピリトゥアル派の修道士は他の会員たちとは異なった生活を続けることができました。

一方でコンヴェントゥアル派とスピリトゥアル派の対立は、教会法と聖フランチェスコのカリスマのいずれの権威が上かという論争をもたらします。

 キリスト教におけるカリスマとは神からの恩寵、賜物を意味します。

キリスト教におけるヨアキム主義とは

ヨアキム
ヨアキム主義は神秘思想家、キリスト教神学者だったフィオーレのヨアキム(1135年~1202年3月30日)が12世紀に主張した予言的・終末的な歴史思想です。

彼は三位一体的な構造を世界史に適用し、歴史は3つの時代で構成されると主張します。

第一の時代は「父の時代」で地上では祭司と預言者が活躍する旧約の時代にあたります。

第二の時代は「子の時代」でキリスト以後の教会が中心となる時代とされます。

第三の時代は「聖霊の時代」です。

教会の時代は過渡的なもので、聖霊の時代になって世界が完成するとします。

ヨアキムは第三の時代に地上では修道士が中心的な存在になると考えました。

教会や国家などの秩序が廃止され、修道士たちが兄弟的な連帯によって支配する時代になるとします。

この思想は教会から問題視されヨアキムは何度も警告を受けますが、撤回しなかったため異端宣言がされることになりました。

ヨアキムはイタリアのカラブリア州コゼンツァ県にあるチェーリコで富裕な公証人の家庭に生まれました。

県都に該当するコゼンツァの学校を卒業すると司法の仕事に就きますが、放縦生活の後で回心してエルサレムに巡礼しギリシャやビザンティウムを旅して帰国します。

その後南部イタリアのルッツィにあるサンブチーナ修道院で数年過ごし、レンデとコゼンツァで伝導を開始しました。

カンタザーロ近くのコルタレでシトー会に入会し修道士となります。

さらにコルタレの修道院長となりますが、1181年に教皇ルキウス3世に解職を願い出て許されます。

修道院長を辞めた後は放浪の旅に出かけ、ロンバルディアを通って1186年にヴェローナに至りウルバヌス3世に謁見します。

南イタリアに帰還すると弟子たちが集まるようになり、1195年頃にはコゼンツァの東にあるシラ山でフィオーレ修道院を建てます。

その後は死ぬまで修道院で瞑想と著述を行いました。

ヨアキムの著書「三位一体論」は終末論を含んでおり、彼の死後である1215年に異端判決を受けます。

ただし生前のヨアキムは複数の教皇から著述の権限が与えられており、著作も認可されていました。

1220年にはフィオーレ修道院がホノリウス3世によって正統信仰を守っていると保証されています。

当初ヨアキムはシラ山やサン・ジョヴァンニ・イン・フィオーレなど、ごく限られた地域で尊敬されていました。

しかし1240年以降になるとフランシスコ会の急進派がヨアキムの著作に影響を受けたため、彼の名前がイタリア全土に広まることになります。

生前のヨアキムが異端と宣告されたことはありません。

彼の著作は多くの異端史で扱われていますが、1688年にローマ教皇庁が公刊した「キリスト教の聖人に関する文書」に収録されています。

キリスト教の聖霊派について

・キリスト教におけるスピリチュアルとは

キリスト教には聖霊派と呼ばれるプロテスタントの教派が存在します。

聖霊派の他にも聖霊運動やカリスマ運動など似たような概念があります。

また聖霊派は一般的にプロテスタントの福音派の一種ですが、13世紀後半に北イタリアと南フランスで清貧の厳格な実践を唱えたカトリックのフランシスコ会に所属する少数派の人々もスピリトゥアル主義(心霊派、聖霊派、厳格派)と呼ばれます。

・フランシスコ会のスピリトゥアル派とは

聖フランチェスコ
カトリックのフランシスコ会はイエス・キリストのような清貧を理想とするアッシジの聖フランチェスコによって設立されました。

聖フランチェスコが理想とする清貧とは個人・共同体を問わずいかなる財産も所有せず、手工業生産と托鉢によってその日暮らしの巡礼者として生きることを指します。

しかしフランシスコ会は発展すると共に制度化され、修道院や教会など財産を所有することになります。

13世紀のフランシスコ会は教皇の個人的な恩顧により、秘跡の授与などの司牧活動で多大な収入を得るようになりました。

フランシスコ会に与えられた様々な特権は教会法でも認められるようになり次第に制度化されます。

聖フランチェスコの清貧の理想は現実から乖離したイデオロギーとなっていきました。

教皇グレゴリウス9世とイノケンティウス4世は教皇勅書を発して無所有の原則と物質的必要性の調和を図ろうとします。

それは財の使用と所有を区別して、所有は認められないが使用は認めるというものでした。

フランシスコ会が使用する財産は教皇座が所有していると解釈されるようになります。

あくまでフランシスコ会は無所有ですが、実際には修道会に寄贈された財産を自由に利用できるということになりました。

清貧の理想から乖離するフランシスコ会から、聖フランチェスコの生前の記憶を保持している人たちが次第に離れていきます。

13世紀後半には北イタリアとラングドックなどの南フランスで、ヨアキム主義の影響を受けたフランシスコ会の少数派が清貧の厳格な実践を提唱します。

この少数派はスピリトゥアル主義(心霊派、聖霊派、厳格派)と呼ばれています。

フランシスコ会は1280年頃までに主流派で緩和を推進する修道会指導部を中心としたコンヴェントゥアル派と、急進的なスピリトゥアル派に分裂しました。

コンヴェントゥアル派は清貧を法的観点から理解し、所有権の完全放棄のみで足りると考えます。そのため財の使用制限は義務ではなく努力目標であるとします。

一方スピリトゥアル派は会則の字義通りの実践を求めました。

聖フランチェスコが存命中に実践していた「裸のキリストには裸で従う」という本当の清貧を主張します。

そのため財の使用における貧しさがなければ清貧の名に値しないと考えます。

1280年以降、スピリトゥアル派はフランシスコ会内部で弾圧を受けますが後に教皇ケレスティヌス5世によって独立が認められます。

しかしケレスティヌス5世の退位後は再び弾圧を受けることになります。

スピリチュアルと類似概念の一般化

20世紀後半になるとニューエイジや精神世界と呼ばれる文化現象が見られるようになります。

ニューエイジは非組織的な一種の宗教現象で、この現象に対して霊性やスピリチャリティという言葉が使用されるケースも見られます。

1990年代以降は片仮名でスピリチュアリティと表記されることが多くなりましたが、霊性と同じものとして扱われることもあります。

スピリチュアリティという言葉はキリスト教などにおける霊性やニューエイジ運動を指す以外に、近年では医療の分野でも使われるようになっています。

1998年に世界保健機関は健康を「完全な身体的、心理的、スピリチュアル及び社会的福祉の動的な状態であり、単に疾病又は病弱の存在しないことではない。」と定義しています。

スピリチュアルという言葉が健康の定義に使用され、さらにクオリティ・オブ・ライフの評価尺度としても使用されます。

世界保健機関はスピリチュアリティ領域を測定するための尺度として「スピリチュアル、信仰、個人的信念」を作成しました。

こうしてスピリチュアリティという言葉はサブカルチャーだけでなく主流文化でも使われるようになります。

ターミナルケアやがん治療など終末医療の分野ではスピリチュアルケアが行われるようになりました。

スピリチュアルケアは「生きがいを持ちやすい人生観」への転換を推奨して、あらゆる事象に価値を見出すよう導くことで人間の心や魂の健全性を守ることを目的としています。

19世紀のフランスの教育学者で哲学者でもあったアラン・カルデック(1804年10月3日 - 1869年3月31日)が創始した新しい宗教はスピリティズムと呼ばれます。

日本ではスピリチュアリズムとスピリティズムはほぼ同じ意味で使われており、心霊主義や心霊術、降霊術を意味します。

日本では2000年代初頭に心霊主義にカウンセリング的な要素を加えた江原啓之がテレビで取り上げられ、スピリチュアルブームが起きました。

魔術的な意味でのスピリチュアルとは心霊主義のことです。

スピリチュアルについて

スピリチュアルとスピリチュアリティ、スピリチュアリズムは似た言葉ですが、それぞれに全く異なる意味合いがあります。

まず本来のスピリチュアルはラテン語のスピリトゥスに由来するキリスト教用語です。

宗教・精神的な物事や教会に関する事柄、神や聖霊、教会、魂、精神のという意味があります。

その他にも超自然的な、神聖ななどの意味が存在します。

様々な宗教などで非常に優れた性質や超人的な力を持つ不思議な性質、天賦の聡明さなどという意味で霊性という言葉が使われることがあります。

霊性は肉体に対する霊の意味でも使われます。

キリスト教では宗教心の在あり方やカトリック教会などにおける敬虔や信仰などの内実、伝統などを指します。

ラテン語のスピリトゥアリタスの英語訳であるスピリチュアリティが霊性の訳語とされることもあります。

カトリックの神学用語としての霊性は5世紀頃に発生しました。

神学用語として積極的に使用されるようになるのは20世紀初頭のことです。

その後はキリスト教だけでなく様々な宗教用語や一般的な文化用語としても使用されるようになりました。

・黒人霊歌について

アメリカでは黒人奴隷にキリスト教が広まり、白人の宗教歌とアフリカの音楽的な完成が融合して黒人霊歌が生まれます。

黒人霊歌はスピリチュアルと呼ばれています。

明確な音楽的特徴はなく黒人が関与した宗教歌を一般的に黒人霊歌と呼びます。

霊歌(スピリチュアル・ソング)という名称は、新約聖書のパウロ書簡である「エフェソスの信徒への手紙」と「コロサイの信徒への手紙」に由来しています。

酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。(エフェソの信徒への手紙 5:18~19)

キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。(コロサイの信徒への手紙 3:16)

19世紀初頭には野外礼拝用の賛美歌がスピリチュアル・ソングと呼ばれるようになります。

スピリチュアルが賛歌や黒人霊歌を指すようになったのは南北戦争後とされています。

黒人霊歌には奴隷の歌や賛美歌など様々な呼び方がありましたが、1960年代にはスピリチュアルという呼び方が一般化しました。

カタリ派について

・カタリ派の特徴

カタリ派は10世紀半ばに出現しフランス南部やイタリア北部で勢力を伸ばした民衆運動です。

現在は消滅していて資料が残っていないので詳しい思想や教義は分かりません。

カトリックはカタリ派がグノーシス主義的な二元論的教義を持っていたため異端認定したとしています。

神が創造した人間の精神が、悪魔が創造した肉体に囚われているという根本的な思想はボゴミル派から影響を受けた可能性があります。

グノーシス主義では世界はデミウルゴスによって創造されたと考えられていますが、カタリ派ではサタンによって創造されたとします。

カタリとはギリシャ語で「清浄なもの」を表す「カタロス」に由来しています。

また12世紀終わり頃からはアルビ派(アルビジョア派)とも呼ばれますが、アルビよりもトゥールーズの方が多くの信者を抱えていました。

カタリ派は人間の魂が物質世界に囚われていると考えます。

この世から逃れて非物質的な世界である天国に辿り着くため、世俗との関係を絶って禁欲生活を送ることを勧めました。

完全な禁欲生活を行う特別な信徒は「完徳者(ペルフェクティ)」と呼ばれます。

完徳者には人々の罪を取り除いて物質世界とのつながりを断ち切る力があるとされ、死後は天国に行くと信じられていました。

当時は正統派キリスト教会が堕落した状態にありましたが、完徳者の禁欲生活は対照的なものです。

カタリ派の運動はカトリック聖職者の汚職や堕落に民衆が反発したことが起源であると考えられています。

カタリ派の一般的な信徒は「帰依者(クレデンツ)」と呼ばれました。

帰依者は「慰めの式(救慰礼)」という儀式に参加できます。

この儀式はカタリ派の唯一の秘跡で、参加すると完徳者となり禁欲生活が課せられることになります。

女性も完徳者になることができ、「慰めの式」を取り仕切ることも可能でした。

完徳者になると肉食や性行為が禁止されます。卵やチーズ、バターなども食べることができません。

ただし魚や海の生き物は生殖行動をすると考えられていなかったため食べることができました。

カタリ派は新約聖書と外典だけを聖典と認め、旧約聖書を認めていません。

新約聖書中の二元論的表現や平等主義的表現を重視した点に特徴があります。

また神による一元的創造や三位一体、幼児の洗礼、免罪符、教会組織なども認めませんでした。

そのためカトリックから非難されることになります。

カタリ派には大規模な教会組織はなく、完徳者を中心とした小規模なグループが存在しました。

・カタリ派の滅亡

1028年のシャル-教会会議1056年のトゥールーズ教会会議においてカタリ派は正式に異端とされます。

またカトリックはカタリ派を改宗させる努力を続けますが、トゥールーズ伯など諸侯の庇護を受けていたため効果がありませんでした。

トゥールーズ伯などの諸侯はフランスの王権から独立しており、カタリ派の存在は次第に政治問題化します。

フランス王フィリップ2世は南フランスも支配下におきたいと考えており、ローマ教皇庁はカタリ派の拡大を阻止したいと考えていました。

両者の思惑が一致した結果、1209年にカタリ派とそれを保護する諸侯を倒すため十字軍(アルビジョア十字軍)が編成されます。

1229年にパリで和平協定が締結されトゥールーズ伯がフランス王への服従とカトリック信仰への復帰を表明しました。

また同年カタリ派対策として異端尋問制度が実施されます。

1244年にはカタリ派の最後の砦であったモンセキュールが陥落しました。

改宗を拒んだ多くのカタリ派信徒が処刑され、南フランスにおける影響力は低下することになります。

1321年には最後の完徳者であるギョーム・ベリパストが捕らえられました。

また1330年を過ぎると異端尋問所の資料からカタリ派の記述が見られなくなります。

信徒たちは各地に離散し、捕らえられて処刑されたり信仰を捨てて改宗したりします。

こうして徐々にカタリ派の運動は終息しました。

キリスト教とグノーシス主義

キリスト教グノーシス主義では各派により細かい違いがありますが、共通する神話が存在します。

神話によるとイエスは人間に本来的自己を認識させる啓示者・救済者です。

父なる神(至高者)から派遣されて旧約聖書の創造神(劣悪な造物主)に束縛されている人間を解放するため、本来的自己の認識を説く福音をもたらしました。

グノーシス主義ではユダヤ教やキリスト教が信仰する神は偽の神です。

・マルキオンとは

マルキオン(100年~160年)は2世紀のローマで活躍した異端のキリスト教徒です。

小アジア(トルコ)のシノペ出身なのでシノペのマルキオンと呼ばれます。

マルキオンは使徒パウロに傾倒しグノーシス主義の影響を受けていました。

彼の思想には物質=悪、霊=善というグノーシス主義の影響が見られ、144年には教会を破門されています。

その後ローマで独自の教会を設立しました。

マルキオン派は数世紀にわたって存続しエジプトやメソポタミア、アルメニアなどに広まります。

キリスト教徒の中で最初に聖書の「正典」という概念を打ち出したのがマルキオンです。

マルキオンは旧約聖書がキリスト教徒にとって不要であると考え、ルカの福音書やパウロ書簡に改変を加えつつ編纂を行いました。

一般的なキリスト教におけるグノーシス主義諸派には、創世記の独自解釈や新たな福音書の創作などの特徴が見られます。

一方でマルキオンは正典を限定しており認識(グノーシス)ではなく信仰を重視します。

マルキオンによる正典編集は、正統派のキリスト教徒にも影響を与えました。

2世紀以降に正統派キリスト教でも新約聖書の正典編纂が行われるようになります。

・ボゴミル派とは

ボゴミル派は10世紀中頃から14世紀末までブルガリアを中心にバルカン半島で信仰されました。

善悪二元論と現世否定を主張しており、正教会はボゴミル派を異端としています。

ボゴミル派は10世紀の中頃にブルガリア司祭のボゴミルが始めました。

当時のブルガリアでは東ローマ帝国への抵抗運動が行なわれておりボゴミル派と結びつきます。

正統派のキリスト教を凌いだ地域もありますが、ローマ帝国が衰退してオスマン帝国領となるとイスラム教が流入します。

ボゴミル派からイスラム教への改宗者が増えて衰退しました。

ボゴミル派はフランスのカタリ派にも影響を与えたとされます。

マニ教と同様に善悪二元論に特徴があります。

ボゴミル派の独自の神話によると真の神にはサタナエルとミカエルという2人の息子がいました。

サタナエルは神に反逆してサタナ(ギリシャ語でサタン)となります。

人間の魂は神が創造しましたが、肉体は混沌から悪魔であるサタナが造りました。イエス・キリストは地上に来たミカエルとされます。

もともとは人間が神を崇拝する約束がありましたが、サタナは神に反抗する目的で地上世界を造ります。

ボゴミル派によると、旧約聖書の神であるヤハウェは自分を神として人々に崇拝させようとするサタナであるとします。

人間の魂はサタナが造った悪しき肉体に拘束されており、救いのためには全ての物質的なものを否定する必要があります。

そのため結婚や肉欲、飲酒、肉食、教会の秘跡(儀式)なども否定されます。

ボゴミル派はグノーシス主義の影響を受けており霊=正義、物質=悪という善悪二元論を主張します。

聖像や十字架、東方正教会や東ローマ帝国などの権力、旧約聖書は悪魔に由来するため否定されました。

さらにキリストの受肉も否定されています。

仮現説とはイエスの身体性を否定する異端の教説です。

イエスの人としての誕生や行動、死は人間の目に現実と見えただけと考えます。

ボゴミル派は仮現説に近いという特徴があります。

グノーシス主義における二元論とは

グノーシス主義では偽の神であるデミウルゴスによって世界が造られたとされています。

そのため宇宙は本来的に悪であり、様々な宗教や思想が神々を善なる存在とするのは誤りであるとします。

グノーシス主義では善と悪の対立が二元論的に把握されます。

善とされる神々が悪であるこの世界を造ったのならば、実際は善ではなく悪であり偽の神ということになります。

従ってどこかに真の神と世界が存在すると考えます。

悪の世界は物質で構成されているので、物質や肉体も悪ということになります。

一方で霊やイデアは真の存在、真の世界と考えられます。

グノーシス主義の世界観は善と悪、真の神と偽の神、霊と肉体、イデアと物質という二元論に特徴があります。

さらに反宇宙論と結合して反宇宙論的二元論となりました。

ソピアー神話とは

アイオーンは古代ギリシャ語で「時代」や「世紀」、「人の生涯」などの意味があります。

グノーシス主義では真の神や高次の霊、霊的な階梯圏界を指します。

至高者の下には至高者に由来する様々な神的存在があり、グノーシス主義の神話では神的存在がアイオーンと呼ばれます。

グノーシス主義では超永遠世界をプレーローマと呼びます。アイオーンは複数存在 しています。

プレーローマで男性と女性のアイオーンが対となり両性具有状態にあるとされます。

ソピアー神話はアイオーンの1つであるソピアーの失墜と回復、分身の地上への落下を記した物語です。

デミウルゴスによる世界の創造と人間が背負った悲惨な運命が記されています。

ソピアーはプレーローマで最低次のアイオーンでした。

しかし知られざる先在の父(プロパトール)を理解したいという欲望を抱きます。

この欲望のためにソピアーはプレーローマから落下して分身のアカモートを生み出しました。

さらにアカモートは造物主であるデミウルゴスを生みます。

グノーシス主義の一派であるバルベーロ-派ではソピアーの娘であるバルベーロ-が地上において人間を救うとしています。

バルベーロ-はキリスト教における悪魔です。

グノーシス主義ではソピアーと同様にイエス・キリストもアイオーンであると考えられていました。

グノーシス主義の反宇宙論とは

グノーシス主義には様々な分派が存在しますが、一般的に反宇宙論と呼ばれる世界観を持っている点で共通しています。

反宇宙論では様々な問題を抱えるこの世界を「悪の宇宙」であると考えます。

グノーシス主義における反宇宙的とは悪に満ちたこの世界を受け入れない、認めない思想・立場のことです。

迷妄や希望的観測を排除して世界を眺めると、悪に満ちた絶望的な現実を見ることができます。

この宇宙は善ではなく悪に他ならないと考えるのが、グノーシス主義の反宇宙論です。

現在人間が生きている世界は悪の宇宙ですが、原初には真の至高神が創造した善の宇宙があったと考えます。

原初の世界は至高神が創造した充溢(プレーローマ)の世界ですが、至高神の神性(アイオーン)の1つであるソフィア(知恵)はヤルダバオートもしくはデミウルゴスと呼ばれる狂神を生み出します。

ヤルダバオートは「偽の神」の固有名です。

デミウルゴスはプラトンの「ティマイオス」に世界の創造者として登場しますが、グノーシス主義に援用されました。

旧約聖書の神であるヤハウェはグノーシス主義ではデミウルゴスとされ、固有名でヤルダバオートと呼ばれます。

ヤルダバオートは旧約聖書において悪い行いや傲慢さを誇示しており「偽の神」、「下級神」であるとされました。

グノーシス主義では愚劣な下級神がアルコーンとされ、ヤルダバオート(デミウルゴス)が第一のアルコーンと呼ばれています。

デミウルゴスは他にも多数のアルコーンを生み出しました。アルコーンは地上の支配者です。

人間の苦しみの原因である肉体や心魂はデミウルゴスが創造したものとされます。

そのため人間は肉体や心魂があるコーンの支配下にあります。

人間がデミウルゴスや様々なアルコーンに優越するためには霊が重要です。

グノーシス主義では霊が救済の根拠とされています。

つまり肉体と霊、悪と善の二元論です。

グノーシス主義の神話ではデミウルゴスが水に映った至高神を自分自身と錯覚して人間を創造したとされます。

「至高なる者」とはソピアーもしくはアイオーンの像のことです。

ソピアー(ソフィア)は古代ギリシャ語で「知恵」や「叡智」を表します。

古代ヘレニズム世界では智慧を象徴する女神とされました。

グノーシス主義やユダヤ教などではアイオーンという名前で世界の起源と関わります。

グノーシス主義について

グノーシス主義は1世紀に発生して3世紀から4世紀にかけて地中海沿岸に広まった宗教思想です。

反宇宙論と二元論に特徴があります。

グノーシスとはギリシャ語で「認識」や「知識」を意味しています。

様々な分派が存在しており、西方グノーシス主義と東方グノーシス主義に大別できます。

西方グノーシス主義はエジプトやシリア、パレスティナ、小アジアやギリシャ、ローマなどで栄えました。

代表的な宗派はヴァレンティノス派です。

ヴァレンティノス派ではグノーシス主義者とそうでない者が区別されました。

グノーシス主義者は禁欲を基本として世俗的な快楽や生殖行為を避けます。

またプロティノスの流出説を採り入れます。

善である永遠界は流出によって生まれますが、その過程でソピアー神話が示すように過失があったため悪の世界であるこの世が生まれたとします。

西方グノーシス主義は禁欲的で生殖を避けたので永続できず、4世紀から5世紀頃には消えました。

イランやメソポタミアで栄えた東方グノーシス主義の代表はマニ教やマンダ教です。

東方グノーシス主義は西方グノーシス主義より少し遅れて栄えました。

西方グノーシス主義の影響を受けている他に、ペルシアにおけるゾロアスター教など二元論的宗教の影響も受けます。

さらにイランやインドに古くから存在する神々や神話も採り入れました。

西方グノーシス主義が禁欲的なエリートによるものであったのに対して、東方グノーシス主義では信徒の階級が存在したため一般の人々も広く入信しています。

一般信徒は生殖が可能だったので永続することができました。

マニ教は3世紀のササン朝ペルシャでマニを開祖として生まれた宗教です。

寺院は現在も中国の福建省にあります。

マンダ教はイラクで現存しています。

イスラム教のコーランに記された正体不明な民族・宗派は自分たちであると主張し、イスラム教徒も認めたため存続することができました。

ユリアヌス帝とテウルギア

ユリアヌス帝(332年~363年)は最後の異教徒皇帝として知られており、キリスト教への優遇を改めたため背教者とも呼ばれます。

新プラトン主義を信奉し、キリスト教を新プラトン主義的な異教に置き換えようとします。

ユリアヌス帝は著作の中で太陽神ヘーリオスを神々と光の極致である理想的な範例で神的流出の象徴と主張し、大地母神キュベレーも信仰していました。

ユリアヌス帝はイアンブリコスの影響を受けており、供犠や祈りを重んじて祭儀的なテウルギアを支持しています。

ヘーリオスはギリシャ神話の太陽神です。

大地母神キュベレーはアナトリア半島のプリュギア(フリギア)で崇拝され、古代のギリシャやローマでも信仰されました。

キュベレーには「知識の保護者」という意味があります。

地母神とは多産や肥沃、豊穣をもたらす神で大地の豊かさを象徴します。

プラトンのイデア論について

イデア論とはプラトンが唱えたイデアに関する学説です。

イデアはギリシャ語で「見る」という意味がある「idein」に由来しています。

本来は「見られるもの」、「姿」、「形」を意味します。

ただし同じように「見る(ideo)」と関連する「eido」という言葉があり、その過去形である「eidon」に由来する「eidos(エイドス)」という言葉もあります。

エイドスは「形」や「図形」という意味で使用されていました。

プラトンはイデアとエイドスを使い分けています。

イデアの意味については時期によって変遷が見られます。

一般的に中期の理解がプラトン哲学におけるイデアの意味とされています。

プラトンはイデアという言葉を使用して心の目や霊の目で洞察される物事の真の姿や原型に言及しました。

かつて人間の魂は天上にありイデアだけを見て暮らしていたと中期のプラトンは考えます。

一方で汚れのために追放されて肉体(ソーマ)という牢獄(セーマ)に閉じ込められ、地上へ降りる途中でイデアをほとんど忘れたとします。

しかしイデアの模像である個物を見ることで思い出すことができるそうです。

人間が魂の内面を見つめ直し、イデアを想起すると物事を原型に即して正しく認識できるようになると主張しています。

プラトンによると想起(アナムネーシス)こそ真の認識です。

またphilosophia(愛知)とは死の練習であり、真のphilosopher(愛知者)は可能な限り魂を身体から分離開放して純粋な魂を保てるよう努力する者としています。

愛知者の魂の知の対象がイデアです。

philosophiaという言葉は明治時代に西周(1829年3月7日~1897年1月31日)が「哲学」と翻訳して有名になりました。

本来はギリシャ語のphilein(愛する)とsophia(知恵、知、智)が結合したもので、「愛智」という意味があります。

20世紀のカトリック神学者であるジャン・ルクレールによると、古代ギリシャにおいてフィロソフィアとは認識のための理論・方法ではなく知恵や理性に従う生き方を意味しており、中世の修道院でもこの用法が存続していたとされます。

プラトンの哲学ではこの世に本当に実在するのはイデアであって、肉体的に感知できる世界はあくまでイデアの似像に過ぎないとされます。

プラトンと新プラトン主義

新プラトン主義は3世紀に成立してヨーロッパにおける古代哲学の最後を締め括った潮流です。

ネオプラトニズムとも呼ばれます。

始祖とされるプロティノス(205年頃~270年)はプラトン(紀元前427年~紀元前347年)のイデア論を徹底させて流出説を唱えます。

流出説では完全なる一者(ト・ヘン)から段階を経て世界が流出し生み出されたとされます。

高次で純粋な世界から低次で物質的な世界へ流出が進み、最終的に現在の世界が形成されたとします。

プロティノスは流出過程を逆に辿ると純粋で精神的な高次世界に帰還できると考えました。

流出説は古代のグノーシス主義思想や中世のキリスト教神学にも影響を与えています。

一者の思想は一神教と結びつき、中世ヨーロッパにおけるキリスト教思弁哲学の基盤の1つになりました。

プロティノスの新プラトン主義は一般的に正統なものと見なされています。

一者への帰還にテウルギアを採り入れた、イアンブリコス(245年~325年)やプロクロスなどの後期新プラトン主義とは区別されます。

テウルギアを望む人々に対してプロティノスは観想(テオーリア)を勧奨しました。

観想によって神的なものと再統合(へノーシス)することを目標としたため、プロティノスの学派には瞑想や観照を行うという特徴があります。

プロティノスの弟子であるポルピュリオスのさらに弟子であったカルキスのイアンブリコスは、祈祷や魔術的な儀式を行うテウルギアを教えています。

イアンブリコスはテウルギアが神々の模倣であると信じました。

著書「エジプト人の秘儀」の中でテウルギア的祭儀は、受肉した魂に宇宙の創造と保護という神的責任を負わせる「儀式化された宇宙創成」であるとしています。

イアンブリコスによると観想では超越的な存在は理性で把握できないとされます。

テウルギアは存在の諸階層を通じて神的「しるし」を辿り、超越的な本質を回復するための儀式と作業であると主張します。

プロティノスの時代にはオリエントの影響で神秘思想が流行しており、新プラトン主義も影響を受けています。反対に新プラトン主義も神秘思想に影響を与えました。

ただしプロティノスはグノーシス主義を批判しています。

テウルギアとは

テウルギアとは神々の御業への祈願や来臨の勧請を目的として行なわれる魔術的な儀式のことです。

特に神々との合一や自己の完成が主な目的とされます。

日本では降神術や神働術、動神術、神通術などと訳されることがあります。

テウールギアーとゴエーテイアはギリシャ語で、古代末期のヨーロッパにおける対照的な魔術の類型です。

前者が神官などが行う高尚な魔術であるのに対して、後者は詐欺師のようないかがわしい人物が行う卑俗な魔術とされます。

ヨーロッパにおける古代の区分には諸説がありますが、概ね西暦200年から800年までの間とされています。

古代ローマの博物学者、政治家、軍人でもあったガイウス・プリニウス・セクンドゥス(23年~79年8月24日)はローマ帝国の属州総督を務める傍らで自然界を網羅する百科全書「博物誌」を執筆しました。

プリニウスは文人で政治家となった同名の甥を養子としており、一般的にはそれぞれ大プリニウス・小プリニウスと呼ばれています。

大プリニウスは「博物誌」の中で魔術は医術と宗教が混ざって無益な形態に堕した欺瞞的なものと批判しました。

魔術の実践者は魔術を擁護するため有利な説明を行ったり、高等なものと低俗なものを区別したりしています。

テウルギアには「神的な働き」という意味があり様々な解釈が存在します。

5世紀の新プラトン学派の哲学者であるギリシャのプロクロス(412年~485年)は、テウルギアを「あらゆる人智に勝る力であり、天恵である予言の才能や、秘儀伝授の清めの力を含む、あらゆる神憑りの業」と定義しました。